それぞれの物語

□−イナフ編−
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イルディシミカの世界には5大種族という、世界で最も美しい5色の種族がありました。その中でヨークラートは森を象徴する新緑色の種族でした。種は小柄で俊敏。草や花、虫を食し、夜にのみ活動する。その瞳は翠石のように透き通り、玉のような白肌は肉食にとって世界で最も美味なものでした。少年イナフは、そんなヨークラートの世界で生を受けたのでした。

暗い暗い闇の中でした。目を開けても閉じても見えるものは暗闇ばかり。暗い暗い闇の中。いつも、これからもきっと、死ぬまでずっと。いやだな…。
深い闇は、その孤独と引き換えにいつも弱い少年を守ってくれました。身を守る術を持たない少年。いつも誰かに命を狙われている。闇の中に息を潜ませ、その気配が去るまで静かに目を閉じている。それがヨークラート族に生まれたものの、生きるための手段。また運命…のようなものでした。時々寂しいと感じる時もある。けれど、生きるために全部我慢しなければなりませんでした。

イナフには何人かの兄姉と父がいました。ヨークラート種の母は単独行動と決まっていたので、兄姉がそうであるようにイナフも母の顔を知りませんでした。それどころか、闇の中で暮らし続けるせいでイナフは自分の顔も知りませんでした。
物心がつくと、イナフは身の回りのものに興味を持ち始めました。ざらざら、つるつる、とげとげ、さらさら、ふんわり・・・あっ、これは、なに?これは?これは?
父に尋ねると、それは必要の無いものだと、それだけでした。

「必要の無いもの?」
天気の崩れた夜でした。深い深い森の中で、暗い暗い闇の中で、硬く冷たい岩陰の下から、イナフは世界の音を聞いていました。滝のような雨、唸る空に轟く雷鳴、突風に煽られる木々、ぬかるむ大地、びしょ濡れになって寒いと感じる。
「これが、必要の無いもの?こんなにおもしろいのに?!」
今肩に触れているこの冷たい岩も必要とされないのか?それなら、自分が必要としよう。
イナフはついに溢れる感情を抑えきれず飛び出してゆきました。何も見えないけど、色取り取り鮮やかな全てを感じるのです。背後で怒鳴る父や驚く兄姉の声なんて天空の咆哮に比べれば何て小さく狭いのでしょう。イナフは両手を大きく広げて、この世界を好奇心一杯に愛しました。

後日、イナフは父に怒られました。イナフの行動はあの天候を得意とするものにヨークラートの居場所を教えるようなものでした。兄と姉からも怒られました。イナフが何度もこれはなに?と聞いてくるのを疎ましいと感じているのでした。それでもイナフは冒険したくて仕方ありませんでした。そんな彼に、父は堅く言い聞かせるのでした。
「世界は、イナフが思っているよりおもしろいものなんかではない。危険で、恐ろしくて、いつ死ぬかわからない。明日は食事を取れないかもしれない。明日この中の誰かが殺されるかもしれない。明日お前は死んでしまうかもしれない。そんなものなんだよ。」
イナフはふわふわする何かを握り締めました。寂しいと感じると、このふわふわする何かだけがイナフに温もりをくれるのでした。
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