幻想物

□砂の宝石
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「いーや!」

「…で、殿下。そのような事を仰られても…」
「やったらやー!ぜったいにぜったいにっ、いーやっ!」
「王族としてひいては国王陛下におなりになる殿下には、他国の言葉を学ぶのは大事な…」

「いーやーだーーーーーっ!!!」

ミュジェヴへルは大声でそう叫ぶと勉強部屋から一目散に駆け出した。毎日毎日じいやのがみがみ、家庭教師のくどくど、もううんざりだ。廊下を抜けて中庭に行こうとしたミュジェヴヘルの目の前が、突然突真っ暗になった。


えっと思う間もなくその黒いものは大きくなって、ミュジェヴヘルを呑みこもうとする。寝る前にばあやが話す昔話の魔物のようにミュジェヴヘルを頭から食べてしまうのだろうか。…余りの怖さにミュジェヴヘルがぎゅっと目を閉じた瞬間、ふわりと温かいものが触れた。


「どちらに行かれるおつもりでしょう、殿下」

頭上から聞こえる物柔らかい、けれども初めて聞く声に、ミュジェヴヘルは恐る恐る目を開けた。ミュジェヴヘルが一度も見たことがない男の顔がずい分上の方にあった。

ぽかんと口を開けて見上げるミュジェヴヘルに、柔和な笑みを浮かべていた口元を少しばかり引き締めると。

「殿下はこれからキシル語を勉強されるのではありませんでしたか」
「………」


そうだっ!次はキシル語の時間だった。国の統治者として、他国の言語に明るいことが要求されるが、ミュジェヴヘルは難しいキシル語の勉強が大の苦手だった。王国の古代語だけでもチンプンカンプンなのに、それに二倍掛けするように文法や発音が難解なキシル語は…。

想像しただけでぞっとする。

とりあえず逃げなきゃ…。ミュジェヴヘルに甘いばあやの部屋で、ばあやの淹れるショコラに胡桃と巴旦杏の焼き菓子を楽しむつもりなのだ。美味しい美味しい菓子が待っている。こうしちゃいられない。
駆け出そうとするが、男の腕がしっかりとミュジェヴヘルの背中に回っていて動けないのだ。ミュジェヴヘルは男を睨みつけるが、男は意に介さず再度同じ言葉を口にした。

「殿下はこれからキシル語を勉強されるのではありませんでしたか」

その静かな声に、びくっとミュジェヴヘルの体は震えた。
父上の代からの家庭教師はミュジェヴヘルが綴りや発音を間違えるたび、首を振って決まってこう言うのだ。

「何と嘆かわしいことでありましょう。お父君であらせられた国王陛下は殿下のお年ですでにキシル語を完璧に習得しておられ、難解なスクワット語を学ばれていましたのに…殿下は…」

建国始まって以来の秀才、ミュジェヴヘルの年で毎年氾濫していたギュネイ川の堤防を築き、初陣の十八歳の時には軍を指揮し大国に勝利した…。

いつもいつも優秀だった父上と比べられては、情けないとため息を吐かれた。尊敬している父上のことでも何かにつけて比べられれば…ミュジェヴヘルだって面白くない。後継だと言われても、ピンとこないどころか、重たい。

…先週の綴りと文法の試験がまったくできなかったために、山のように課題を出されたけれど…。ミュジェヴヘルが逆さ髭のお小言を聞いている時間に、同い年の従兄弟は馬遊びや舟遊びをしていたという…。それを聞いてなおさら、勉強なんてやりたくないと思った。

馬に乗ってみたいし、船にだって乗ってみたい。もっと遊びたい。


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