幻想物

□砂上の華
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ぐっと内臓がせり上がるような圧迫感と吐き気に、さらにその思いが強くなって瞼を閉じる。目の前の欲望で目をぎらつかせている男の顔など見たくない。己が身が受ける苦痛から逃避しようと、ネイは一心にその男のことを思った。
人の悪いからかうような言い方、老獪という形容句がぴったりの…ネイよりも二周り近く上の、大人の男…。


「……関心せんやり方だな…」
ため息混じりの声が聞こえたかと思うと、ネイの体を圧迫していた男の重みがなくなった。突然軽くなったことに驚いて、ネイは閉じていた瞼を恐る恐る開けた。すると、屈強な男たちがネイに圧し掛かっていた男を地面に抑えつけ手際よく縄を張っていた。
見知らぬ男たちの出現と先ほどの声に、ネイの頭は混乱していた。…信じられない。屈強な男たちの後ろに立っているのは…。
二年振りに見る、無表情のカスムだった。
床に転がるネイにわずかに眉を寄せると、男たちを押し退けるようにして前へ出てきた。驚きで言葉をもなく呆然とするネイの前に立ち、やおら自分の長い上着を脱いでネイの体をすっぽりと包んだ。
「…あ、ど…うし、て貴方が…」
訳がわからないというより、目の前に男がいることの方が信じられなくて、ネイは条件反射のように後退っていた。
「どうして?…簡単な事だ。ずっとお前を見ていたからに決まっているだろう」
馬鹿なことを、とでも言うようにカスムは淡々とした口調でそう言うと、呆然とするネイの体を抱き起こした。そっとネイの頬を撫でて、唇の端に指を伸ばした。
「…痛っ」
指先で撫でられ、唇の痛みを自覚したネイは小さく声を上げた。
…と、ネイの咎めるような視線にカスムは不満があるのか、不機嫌そうな表情でネイの唇の血を指で拭う。カスムは指先に付いたネイの血に片眉をわずかに上げると、鋭い視線を取り押さえられている男に向けた。かすかに顎を引くと、屈強な男たち…カスム個人の私設の親衛隊か何かだろう。その内の一人がカスムに軽く頭を下げて、他の男たちと共に、縄でぐるぐる巻きの男を抱えて出て行った。


扉の閉まる音が聞こえ、男たちの足音が遠ざかる頃には、混乱気味だったネイの頭も、少し落ち着きを取り戻していた。冷静になった頭で先ほどのカスムの言葉を思い出して…かっと頬が赤くなった。
確かに今、この場にカスムがいるということは、ネイの想像どおりという事になる。だが、そんな都合の良い話がある筈がないのだ。目の前の男ほど長く生きてはないけれど、二十二年間それなりに経験してきている。人に騙された事、人を騙した事…もある。そうそうおめでたい人間ではない。
少なくとも…カスムがネイに未練を持っているなどとありえないのだ。
「…見ていたって、どういう…こと、ですか」
切れて熱を持ち出して乾いた唇を舐めて、そっと窺うようにカスムを見つめる。ネイが内心動揺していることに、カスムはやや意地の悪い笑みを浮かべた。
「言葉通りの意味だ。お前が私から逃げて、他の店に移った時からだ」
カスムの言葉にネイはくっと息を呑んだ。─そう、逃げたのだ…二年前この男の元から。
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