幻想物

□砂の宝石
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ミュジェヴヘル駆け出そうとしたのを察知して、男はミュジェヴヘルの体を上から押さえ込んだ。

「キシル語は他国との外交に必要で、殿下がまず覚えなくてはならない言葉だということは…聡明な殿下ならば、すでにお分かりでございましょうが」
「はっ、はなせ!うるさいうるさい!…っ」
「……分りました…私が殿下をお連れしましょう」

男の腕から逃れようともがくミュジェヴヘルの体をひょいと肩に担ぎ上げた。

「…わっ!わああっー」

ミュジェヴヘルが驚きで声を上げたのを無視して、男はすたすたと廊下を歩き始めた。

「お、おろせ!…このばかものめっ、このぼくにこ、こんなぶれいなことをするなんてっ。打ち首にしてやるーっ。おろせ〜〜」

わめきながら手足を動かして抵抗するが、男はその足は一度として止めることもなく、ミュジェヴヘルは勉強部屋へと連れていかれた。

そうして、魔物ならぬ地獄からの使者に連れ戻されたミュジェヴヘルを待ち受けていたのは、逆さ髭の家庭教師、ではなくて、満面笑顔のじいやだった。

「…殿下、ようお戻りくださいました…。じいは嬉しゅうございます」

机に両肘をついてミュジェヴヘルがぶっすり頬を膨らませているというのに、じいやは上機嫌でミュジェヴヘルに無礼を働いた男を部屋に留め置き、驚愕の言葉を口にしたのだった。

「本日より、殿下のお勉強は元より殿下の生活すべてをご指導いただくバシャック殿です」


そんな話…聞いてない聞いてないぞっ。ミュジェヴヘルはぷくっと頬を膨らませて抗議の声を上げた(机の脚を何度か蹴った)が、じいやは両手で耳を塞ぐとわざとらしいまでの笑顔を見せて。

「では、バシャック殿。殿下をよろしくお願い致します。じいはこれよりショコラに胡桃と巴旦杏の焼き菓子をご相伴に預かりますので…」

そう言ってくるりと背を向けて、部屋から出て行ってしまったのだ。

今、じいやは何と言った?

「…ば、ばあやのショコラもく、胡桃のも…ぼくのなのにっ。そんなのそんなのだめーっ!」

ミュジェヴヘルは静かに閉まった扉を呆然と見つめ、その言葉の意味を理解して、椅子から飛び上がってじいやの後を追おうとした。

…が、あっという間にものすごい力で、両肩を抑え付けられて再び椅子に戻らされた。かっとなって目の前に立つ男、じいやが家庭教師だと言ったバシャックの下半身を思いきり蹴った─はず、が…反対に男に足首をきゅっと掴まれてしまった。今までじいやにも誰にもそんな風にされたことがない。
ミュジェヴヘルが驚愕で固まっていると、男…バシャックはにこっとそれはもう優しい笑みを浮かべて、ミュジェヴヘルに告げたのだ。

「さぁ、殿下。私と一緒にキシル語の勉強を致しましょうね。…まずは、殿下のおみ足、右足はキシル語では…」

「……へっ…?」
「右足は何と申しますか?お答え頂くまで、私は殿下のおみ足をお放し致しません。さぁお答えを…」
「こっ、このぶれいものっ。はなせっはなせっ!だ、誰か…」

わたわたと手足を動かすが、見た目は優男風のバシャックの力の前に、たちまちミュジェヴヘルの息は上がった。はぁはぁと肩を上下させて右足を持ち上げる男を涙目で見上げるが、この男にはまったく…通じなかった。

「お答え頂けないといつまでもこのままですよ。聡明な殿下はすでにご存知でしょうが、こうして足を上げていると、血の流れが止まり足の先から腐ってしまうことを…」

話していくうちに悲しそうな表情になって、最後は声を落としてそう言ったのだ!

「!!」

びっくうっ。足があしがあしが……。恐怖のあまりつんと鼻の奥が痛くなって、いつの間にか本当にミュジェヴヘルは泣いていた。足が腐ってなくなっちゃったら、もうこっそり母上の寝台に入って眠ることも、砂場に足で絵を描くこともできないではないか!

「ど、ど、どどどうしたらっ、あしがくさらなっ…ひっく…ふぅっ…」

ぐすぐす鼻を鳴らしてミュジェヴヘルが問うと、バシャックは「ではキシル語では何と申しますか?」

何ていったっけ…えーと。えーと…。真っ白な頭でそれでも必死になって考えて、ようやく思い当たる単語が頭に浮かんだ。恐る恐るミュジェヴヘルが答えるが、それだけで許してくれる男ではなかった。


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