外法帖text

□形見(かたみ)
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過ぎた酒を夜風で醒まそうと座敷を出れば、明ける前、漆黒の空は月さえ作り物の色へ変えている。

みな閨へ引っ込んでしまったのだろう、廓から漏れる灯りは数えるほど、狐火の如くに、てんてんと揺らめくばかり。

厠で用を足し、廊下へひょいと顔を出せば、元の座敷に戻ろうにも、灯りの数が減って、目印の役には立たぬ。

道に迷うもまた一興と、隻眼の男は、出鱈目に歩を進めた。

夜風が運ぶ、途切れ途切れの三味線が、こっちへおいでと招いている。音を頼りの千鳥足がたどり着いたのは、とんと人の気配のない、廓のはずれの座敷だった。

「───ひとり、かい?」

ぱたり止んだ三味線に、襖の隙間から覗き見れば、見事な紅の打ち掛けの裾が、わずかに暗闇に浮かび上がる。

転がる徳利を蹴る爪先、足の甲にいくつも残る古傷に気を惹かれ、隻眼の男、們天丸は、見知らぬ座敷へと足を踏み入れた。

「悪ぃな、ふたり、だ」
打ち掛けをまとった遊女、否、遊女とみえた者が、くっと酒を煽り答える。

総髪、白地に紫の着物の上から、遊女の打ち掛けにくるまった───年若い男、は、弦の切れた三味線と向かい合い、ひとり、酒を呑んでいた。

「………そちらさん、さっき」

図々しくもあぐらをかき、座敷の中を見渡せば、女はおらず、客もおらず、灯りもたったひとつきり、転がる徳利にまみれ、ただ、使い込まれた三味線だけが、酒の相手をつとめている。
では先刻の楽は、三味線に宿りし者が奏でたか、そう問うまでもなく。

「供養だよ。いや……俺が、女々しいだけだ」
「それは、えらい野暮をしてもうて───おっと」

死んだ遊女との最後の逢瀬と、打ち掛けの下で肩が揺れる、これまた酒が過ぎたのだろう、ゆらゆら定まらずよろける背を、知らず、受け止めた。

「すまねぇ、な……」
「気にしいなや」

深酒に自分をもてあまし、寄りかかり息と弱音を吐く、見ず知らずの男を抱きかかえる。
赤地に緑と金の刺繍で柳を描いた打ち掛けと、その下の細い腰が、女を抱いているようだ。
こわばる身体を引きよせ、覗きこんだ目の縁、乾く間際の涙をみつけ、們天丸はうすく笑った。

「ひとり…で、座れる」
「倒れて徳利に頭でもぶつけたら大事や、しばらく、こうしとき」

ひとこと喋るにも、酒であがった息が切れる、しばし言い淀み、おとなしく身を預けてきた『遊女』の髪を、們天丸の指が梳く。

「───形見分け」
「……ん?」

首をまっすぐ支えられず、うつむいたまま、手探りで酒を探す手を、上から包むように握り込み、盃から遠ざける。
舌打ちのじれた様子が、いかにも子供っぽく、どうあっても手を離してやるまいという気になる。

「もらったんだ、打ち掛け。三味線も、形見に……」
「馴染みやったんか」
「片手で数えるほども、会ったこたぁねえよ」

握り込んだ手で腰を抱え込み、空いた手の甲を指の腹でなぞる、節ばった掌はたしかに剣の心得のある男のもの、しかし、頼りない吐息も、ゆらゆら傾ぐ身体も、まるきり廓の女のそれだ。
形見の品に取り憑かれたか。
手首を返して弓手も握り、片方、立てた膝に這わせる。震える肩に顎を乗せ、それで、と続きを促した。

「………馴染みでもねえのに、俺ぐれえしか、形見を渡す相手がいない。侘びしいもんだと思って、な」
「それで、供養か」
「とっくに……成仏、しちまってる筈さ。だが、俺ぁ、どうにも侘びしいんだ」

こらえきれず流れる涙を舌で舐めあげ、抗いもせぬ脚をさぐる、侘びしく死んだ遊女の供養というならば、代わりに抱かれてやればいい。血も骨もあまさず可愛がられたならば、迷える魂も満たされるだろう。

「情けが深いのは───ええ『女』、や」
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