ヒカルの碁

□孤高の棋士 第零局
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 第零局"プロローグ"
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夕方の喧噪に満ちた繁華街の一角。
コンクリートの階段を登った場所に、人気のない碁会所があった。
通りに看板はあるも、小さな目印のような物で人の眼を引かない。
人通りの多さに反して誰も通らないその階段を、小学四、五年生くらいの少年が一人、躊躇いもなく上がっていった。
帽子を深く被っていて顔を隠しているが、態度からは不安や怖れといった気持ちはないようだ。
そればかりか子供らしくない落ち着きを払い、どこか余裕の見える足取りだった。
少年は少し重い扉に手を掛ける。
室内は蛍光灯に照らされているが、充満した煙草の煙と静かな様に辛気臭さを醸し出していた。
幾つもある机の上に、使い込まれた碁盤が並ぶ。
そこそこ入っていた客達は、殆どが五十代以上という初老の男達だった。
少年は扉の前に立ったまま室内を見回す。と、入り口近くに設置されているカウンターの中から、席亭と思われる男が顔を出した。

「お客さん?」

場所に不似合いな客を見た男は、訝しく思いながらも優しく聞くと、少年は僅かに緒を伏せたままコクリと頷いた。

「碁は打てるのかい?子供は五百円だよ」

席亭の言葉を聞いた少年はもう一度頷いた。
どうやら必要なことしか喋らない、無口な子供なのだろう。
少年はトレーナーのポケットから五百円を取り出し、カウンターの上に置く。

「棋力は?」
「さぁ……。でも、強いよ」
「生意気なこと言うじゃねぇか。俺が相手してやるよ」

呟かれるように答えた少年の言葉に、近くの席で対局していた男が見下したような笑みを浮かべた。
少年は顔を上げずに口の端を吊り上げると、男の向かいの席に着いた。
店にいた他の客は、何が始まるのかと興味を覚え、二人の周りに集まってくる。

「置き石、置いてもいいぜ」

男は強気な表情で言うが、少年は首を振って拒否した。
そんな少年に男は苛立ち、乱暴な仕草で煙草を燻らせた。

「じゃあ、ニギるぞ」

言うや否や、二人は同時に碁石の中に手を突っ込んだ。
ジャラと碁石の擦れる音が静かな室内に響いた。
盤の上に置かれた少年の石の数は二。
男の出した奇数の石とは違い、結果、少年は白石後手の対局になった。

「おねがいします」

二人は同時に頭を下げて、開始の挨拶をした。
大勢の人が見守る中、パチッパチッと石が並んでいく。
一手が進んでいくうちに、周りの男達は眼を見開き、対峙していた男の顔が歪んでいった。
とても適わない、と男は思う。
様子を見ようが、勝負をかけようが、少年の一手一手は冷静で的確に男を追い詰める。
揺るぎないその手筋に、男はゴクリと唾を飲み込んだ。
刹那、パチッと澄み切った綺麗な音が男の耳に届いた。
男は食い入るように盤面を覗き、肩を落とす。

「ま、負けました……」
「つ、強い……」
「とても子供の打ち方とは……」

男の敗北宣言の後、対局を見ていた客達から感嘆と疑惑の声が漏れた。
圧倒的な強さを見せ付けた少年を、男は恐る恐る見やった。
少年は帽子で顔の上半分ほどが見えなかったが、苦笑を洩らしているのが分かった。
大人びた仕草に男は言葉を失う。が、客の中の一人がいきなり突拍子もない声を出した。

「あッ!も、もしかして―――このガキが」
「なんだ?知ってる奴か?」
「いや……。ただ、前から流れてた噂だ」
「どんな?」

少年以外の皆の視線が男に集まった。
男は信じられない、といった表情で話を続けた。

「二年くらい前からあっちこっちの碁会所に顔を出しては、強い奴を片っ端から負かす小学生の子供がいるらしい。その子供は帽子で顔を隠してて、殆ど喋らないから誰も名前も知らなかった。しかも、相手の中にはプロ棋士もいたって話だぜ……」

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