世界に零れた月の雫

□拾章
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―翌日、湿気りの残る服を着たアユムは心の底から戸惑っていた。リンにどう接していいか分からないのだ。
というのも、朝食を作るリンは、やたらに機嫌のいい様子だったからであり、アユムからすれば、リンは機嫌斜め、という印象を持っていたからに他ならない。

もっとも、昨日のスープとパンを温めた簡易な朝食が始まる頃には、アユムもその空気に慣れたようで、機嫌も悪いよりはいい、という事も手伝っているのだろう。




朝食が終わると、アユムが食器の片付け、その間に、リンは着替えて、タオルや自分の衣類を洗濯機で回し始める。少しゆったりして見える白いズボンに、青い半袖Tシャツの上から、ボタン止めで薄いピンクの長袖シャツを着た姿は、動き易そうな格好だ。




「…そう言えば、アユムって、服がいるんだよね?」

リンがそれを思い出したように言ったのは、陽も傾き始めて、一息ついている頃だった。頷きながら、この格好は目立つから出歩く訳にも行かない、そんな旨をアユムが話すと、二つ返事で了解した。リンとしても、風呂に入る度に裸でうろつかれても目の毒、という事もあるのだろう。


「、そういや、名前もどうにかしないとな」

「…名前?」


「ファーストネームだけで、姓がないっていうのが、変な事だというのは、なんとなく気付いている。戸籍は無理だが、せめて不審がられない名前はあったほうがいい」


そんなアユムの説明に、リンは納得すると、「名前、かぁ」、と何やら考えはじめたようだ。
つくづく今日は機嫌がいいらしい、服は明日にでも買いに行ってくれるらしいし、後は、怪しまれないような名前があればどうにかなるだろう。アユムはリンに感謝と感心を示しながら、考えはじめた時、リンが思い立ったように声を弾ませた。


「ね、ね、[カイマ]は?…私の姓だけど、なんか考えるの疲れてきたし、アユム=カイマ、、どう、かな?」

少し赤らめて恥ずかしそうなリンの表情(かお)に、アユムは、本当に疲れている、と思ったらしい。リンの頭を引き寄せると、そのまま、リンと自分の額と額をくっつけた。

「少し熱があるみたいだな。…?、なんか体温上がっていってないか?」


「顔が近いせい」、とは言えず、目の前の光景に口をパクパクさせるリン。
よく見れば、割と整った顔立ちをしているようで、そんなアユムの顔が、真正面に映りきらないくらいに迫っている。アユムが顔を離してようやく、「な、なんでおでこ」、と絞り出すが、直ぐに顔を真っ赤にして俯いてしまう。が、

「他意は無い。異性同士で体温を測る場合はこうする決まりだと、昔、本で読んだんだが…違うのか?」


アユムがこんな事を口走った為に、リンはただただ呆れて、大きなため息を吐き出した。
僅か2日だが、アユムはこういうヤツだと、再認識したリンの苦笑いにアユムが気付く事は無い。


「…カイマ、か。ま、名乗れればなんでもいいか。ありがたくもらっとく」


そう言って、微笑みを返すアユムに、真っ赤になったリンが逃げるように晩ごはんの支度に取りかかったのだが、当然、アユムは、リンの隠せていない照れ隠しに気付く事は無く、ただ疑問符を浮かべていた。





――翌日は、欧州へ雨期の季節を知らせるように雨が降っていた。
雨といっても、さほど強いものではなくパラパラと降っている程度で、ジーンズに丈の短い白のワンピース、上から厚めで前開きの黒いシャツを羽織って、リンは出掛けていった。



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