花霞堂

□空蝉
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 男は苛立っていた。

「くそっ! 何なんだよあの店!」

 男 ――名を西中雅也という―― は行き場のない怒りを布団にぶつけた。雅也はくそ、ともう一度呟き、先ほど殴った布団に倒れ込む。布団は柔らかく雅也を受け止めた。

 雅也が花霞堂に行ったのは悩みがあったからだった。二週間前から夜中になると赤ん坊の鳴き声が響くのだ。勿論、近所に赤ん坊などいないし、隣人は鳴き声など聴いた事がないという。最初の一週間は小さくか細かったためほうっておいたが、一週間過ぎると段々大きくなり、最近では眠れない程だった。
 雅也がどうしたものかと悩んでいる時、友人から何でも願いを叶えてくれる花霞堂の話を聞いたのだった。場所は不明、経営者も不明の胡散臭い事この上ない話だったが、いい加減精神的にも辛くなってきていた雅也は、その確証のない噂にすがった。しかし場所が不明のため当て所もなくフラフラさまよっていた時、突然目の前が開け、ドカンと花霞堂が建っていた、というわけだ。
 しかし頼りにしていた花霞堂ではわけの分からない事を言われ、腹を立てて帰ってきてしまった。

「本当にわけわかんねー…。 ――蝉の抜け殻を集めろ、なんて」

 雅也は花霞堂の店員、全身真っ黒な女を思い出しながらつぶやく。蝉の抜け殻で鳴き声が収まるなど到底思えない。それに蝉と赤ん坊、何の関係があるのかもさっぱりだ。しかしだからと言って何もしないでいるのも不安だ。雅也はゆっくり布団から起き上がり、部屋の中をぼんやり見詰めた。
 ――また鳴き声で眠れなかったら。
 そう考えるとやはり信用出来ずともやらないよりはましか、という気分になってくる。雅也は溜め息を吐いた。あんなわけの分からない言葉に従うなんて、自分もどうかしている、と自嘲気味に心の中で呟きながら。


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