(高校生、学生現役モデル)
集合15分前。
「…っん……は、」
ようやく離された唇から、つうと唾液の糸が伝う。酸素不足で頭がぼんやりしていたが、これを相手を詰る要素には出来ない。なにしろ先に舌を絡めたのは獄寺の方なのだ。
至近距離で、直前まで口づけを交わしていた相手がふっと笑った。
「獄寺、衣装汚れる」
さっと唇を指で拭われ、今更ながら羞恥が込み上げる。みるみる赤くなっていく頬や耳を見られるのが癪で顔を逸らそうとして、彼、山本の両の手に阻まれた。
しかも熱い頬を挟まれ、視線まで絡めとられてしまった。
「なんだよ」
「獄寺こそ。いつもは『仕事の前にそんなこと誰がするか』って怒るくせに」
どうしたの、と優しく首を傾げられ動揺する。
「べ、つに」
結果、中途半端に詰まった応えに、山本は当然納得しなかった。
もう一度、ちゅ、と軽く触れるだけのキスをされる。
「獄寺?」
「……」
誰が言えるか、と獄寺は思った。そもそもこんな思考回路、自分だって認めていないのに。山本なんかに、話せるわけがなかった。
だからいっそ、こんなに近くにいるのだ、察してくれればいいとさえ思う。察して、あとは汲み取って何も言わないで欲しい。
だから、ただ何も言えずにどうにか視線を外すと、山本の手がぱっと離れた。
「ま、言いたくないなら無理に聞かないけど。そろそろ時間だし、行く?」
「……そうだな」
こういう山本の優しさを、本当は真に受けてはいけないのだということはわかっていてどうしようもないのだから仕方ない。我ながらしょうもなくて、笑ってしまう。
その笑いにほっとしたように山本が口元を緩めるのを見て、衝動的に違うのだと叫び出したくなった。
だが、それが出来ていたらこんな風に悶々とした気持ちを抱えることもないのだ。
結局今日も何も言葉に出来ないまま、別々のスタジオに向かう。山本に背を向け廊下を進みながら、こんなことならこの仕事自体辞めてしまいたいと思った。
山本が獄寺を好きだと言ってくれること、そのことを嘘だと思ったことはない。寧ろ「好きじゃねえよ」とか「さあな」とか、適当な言葉であしらうのはいつも獄寺の方だ。
そもそもこんな関係になったのは、普段獄寺が学校で作り上げている人格が作り物だと露見したところから始まる。
今も通っているそこは、タレントやモデルを目指す専門の学校で、既に現役で仕事をしている者も多い。
獄寺もその一人で、当時からよくこのスタジオに来ていた。
あの日、獄寺はなかなか捗らない撮影に苛立ちを抑えられずにいた。しかし、年齢もキャリアも低い中でそれを不満として口にするには周りの目が気にかかる。休憩して欲しいと声をかけられ、気分転換でもしようと建物の裏に駆け出した。
煙草を吸い始めたのはいつ頃からだったろう。たしか、この業界に入った当初は吸っていなかったのだけど。
「…あれ、獄寺、だよな?」
はあと吐き出した紫煙の横から、突然そう声をかけられた。驚いて顔を上げると、そこにいたのは同い年ぐらいの男。
男は、自然な動作で獄寺が腰掛ける植え込みの隣に座った。
「煙草なんか吸ってるのな、意外」
気軽にかけられた言葉に唖然とする。意外?自分のことを知りもしないくせに、何を言っているんだこの男は。
「悪いかよ。つうか、なんでオレの名前知ってんだよ」
喫煙を誰かに申立てられたら大変なことになる。それを感じながらも、こんなやつのせいで気分転換の時間を削がされた、と立腹する心の声の方が大きかった。
睨みつけると、男は微かに目を瞠り、それから何故か大きく頷いた。
「………そっか、や、変だなあとは思ってたんだ」
「…は?」
「そういうことなのな。獄寺ってそれが素顔なんだ」
立て続けに告げられた言葉にようやく真意を悟る。まずい、と思った。頭に昇っていた血が音を立てて下がっていく。案の定、「オレ、隣のクラスの山本武。よろしくな」と男はにっこり笑った。
「隣、のクラス……」
「うん。まあ知らなくても無理ないよな、どのクラスも人数多いし。獄寺は有名だから知ってたけど」
同じ学校の生徒だったのなら、知っていて当然だ。獄寺は普段から、常に笑顔で誰にでも親切、というベタな優等生を演じていた。それが学校に通うために命じられた条件なのだ。
だから、こんな風にばれたとなれば、二度と学校には通えなくなるかもしれない。
ああ目の前がくらくらする。こんな形で長年の努力が無駄になるとは思っていなかった。
何より、自分に責任があるだけに憤る先さえ見つからないとはなんて腹立たしいんだろう。
「…っくそ」
煙草を植え込みに押し付け、立ち上がる。山本が顔を上げこちらを窺っているのに気付き、獄寺は唇を噛んだ。
「えっと、」
ふと、困惑気味に山本が頭をかく。何事だと半分睨み付けるようにして見下ろすと、
「何怒ってるかわかんねーけど…いつも学校で見る獄寺の笑顔オレ好きだし、今日のことも誰かに言ったりしないぜ?」
そういうことはしないだろフツー、と山本は肩を竦めてみせた。
また、驚きに言葉を失う。その顔に何を思ったのか、山本はくすくすと笑い出した。
「そんな顔見せんの勿体ないのな」
獄寺は、オレだけの秘密、なんて口笛く山本に戸惑いと、……喜びを感じたのだ。新鮮な気持ちだった。
今まで偽り続けた人格の中にいたから、なおさら。
だから、その一ヶ月後に付き合おうと言われたときは、純粋にうれしかった。
素直に好きだと言うのにかなり時間がかかったのだけれど、山本もそのあたりは汲み取ってくれた。それが獄寺の素顔だから、と。
そんな経緯があるから、と獄寺は思う。だから本当にいいたいこともなにもかも、言い逃してしまうのだ、きっと。
ただただ、単純なことで。獄寺自身同じ仕事をしているのだから何も文句の言いようなんかないのに。
他の誰かに笑いかける山本を見ていられないなんて、甚だ可笑しくてこうなると苦笑すら出てこない。第一、そんなことを思っている自分自身、可笑しい。
そうやって考えて、思うのだ。仕事を、「……辞める、か」と。
元々、フラッシュが好きだとか服が好きだとか自分の写真が好きだとか誰かに騒がれるのが好きだとか、そういう理由でやっているわけじゃない。
最初は少しの好奇心、と軽い脅迫、あとはその後出会った山本がいるからだ。
「なんで?」
「…っ!」
突如ガシッと肩に重みがかかり、耳元にそう吹き込まれる。
心臓がおかしくなるところだった。
「やま、もと……」
「なんかおかしいと思ったらそんなこと考えてたんだ?」
「……」
無意識に口に出していたらしい呟きを聞き咎められたのだと気付いた瞬間、背にくっついた胸の動きがいつもより早いことにも気付く。
「山本?」
「帰るときにもう一回聞こう、とか引かなくて良かった。獄寺、仕事、辞めるの勿体ないよ。オレ、獄寺の笑顔好きだって言ったろ?」
そんなことは知っている。でも、そうじゃなくて、
「まあ、本当の笑顔はもっと好きだけど……それはオレの前でしか見せないでくれてるんだろ?」
確信を持った笑顔で言われて、一瞬思考が途切れる。その隙を狙ったように掠めるように口付けられた。
敵わない。敵うわけない。なにしろ好きだと公言憚らないのは彼の方で、獄寺はほとんど何も口にはしていないのだから。
山本は続けた。
「オレも獄寺にしかキスしないし、したくないのな。あ、でも撮影の時は獄寺のことばっか考えてるから顔にやけてるかも」
察して欲しい欲しいとは思ったけど、まさか本当に気付いてるなんて。
独占成功確率論
いつも意識全て支配されてる、なんてこっちの台詞だ。
言い放ってやろうと息を吸った瞬間を狙って山本は「あ、そろそろマネージャーが探しに来るかも」などとつぶやいた。
どうせ何もかも伝わってるんだろう、それが悔しかった。
あまりに悔しいから「今日はこのままサボる」と悪ぶってみせる。が、「うん、いいよ」とあっさり頷かれ、とうとう意趣返しすら敵わなかった。
fin.
【2009.3.8】