words(BOOK)

□白だけが残った
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凍てつく頬
吐く息の白さ
背負った鞄の重み
ぼやけた街灯
冬の日の朝



彼はベンチに座っていた。微かに白く息を吐きながら、まだ日も出ていない薄暗いベンチに腰掛けて何かを書いていた。通り過ぎた後で足を止めて振り向くと彼は背を丸めて右手だけを動かしている。ふう、と息を吐くとまた白く凍った。

薄く積もった雪を踏みしめて、また 歩き出した。





『浮かんだ言葉を書いているんだ』

彼は言った。

『すぐに書き留めないと、また逃げて行ってしまうから』

にこりともせず、言った。

『ここから、』

頭を指で示し、

『ここに来るまでに』

右手を少しだけ持ち上げた。

『既に半分以上が失われている』

微かに目を細めた。


そのノートには罫線を無視した言葉の羅列が綴られていた。あちこちに飛び回るような言葉の群れ。まるで暗号。だけどどこかに導かれるような羅列。意味を考え出したら無重力の言葉の海に放り出されてしまう。



―どうしてあなたがそれを書き留めきゃならないの?

彼は黙った。何もない空間をじっと見据えた後で小さく首を振った。



彼は自分の昔のことをよく覚えていないと言った。どうしてか生きてきて、どうしてかここにいる。ノートとペンだけを持ってあちこちを旅しているのだと。


―どうしてこんなに寒い冬に、しかも朝に、こんなところで?

『季節は巡るから、たまたま今が冬なだけだ。君は今が朝だと思うの?僕はそうは思わない』

ひとつも解答はなかった。会えばそんなことばかりを話した。


帰る場所は、家族は、年齢は、

つまらないことばかりを聞いた。彼は口を開いても答えは口にしなかった。どこかからやってくる言葉を右手で生み落とし、その羅列が何の意味を持つのか。最後まで私には分からなかった。



『きっともう、終わりは近い』

あるとき彼は言った。凍てつく二月の朝だった。どうして?と、聞くことが出来なかった。



三月の朝、彼はペンを握ったまま動かなかった。肩には雪が積もっていた。煙のような白い息も、もう吐くことはなかった。彼の手にあるノートをそっと抜き取り、雪を手で払って鞄に入れた。

その横顔を見納めて、来た道を戻った。



―ねぇ、あなたは一体誰?


どうしてか聞けなかったことを悔やんだ。
この問いにあなたが何と答えるのか、それが聞きたかった。

答えなんていらなかった。ただ。



羅列した彼の言葉が頭の中に飽和しかけた頃、途切れたように次のページの空白が目に入る。続きを書いて、と言わんばかりのその空白に手が止まる。



あ ぁ

私のした問は、彼に掠りもしなかった

彼はただ、言葉を綴るために生きていた

何のために、とか 誰のために、とか

何も関係なかったんだ

彼はただ。彼は、ただ。





そして三月の夜と朝の隙間、ノートを手にベンチに座る
安っぽいペンを右手に、彼を真似て背を丸めた



真冬の静寂の中で、
冬と白い頁が残る

あのとき黙って首を振った
彼の言葉が聞こえた気がした





『  わ  か  らな  い よ 』










20221021


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