words(BOOK)

□青い魚
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じゃあ、またね。と言って去り際いつものようにオジサンが私の手に握らせた諭吉。

私はそれをぐちゃぐちゃに握り潰して、そのまま、諭吉を握ったままでホテルを出たのです。



いつもはタクシーで帰る道を、今日は歩いてみることにしました。まだ暗い道には微かに雨の上がった匂いがしています。雨上がりの匂いは時々生まれた町を思い出させます。いつかの懐かしい記憶が甦りそうになって、困ってしまいます。





一本向こうの通りに川が流れているのを不意に思い出して、思うまま足を向けました。


端から端まで100メートルといったところでしょうか。大きくも小さくもないその川はそれでも昨夜の雨で嵩を増やし、まるで一人前の大河のような顔をしていました。


朝の陽が昇るまでずっと私は橋の真ん中で川を見つめていたのです。時折通りかかる車はそのたびに排気ガスを撒き散らして私の後ろを通り過ぎていきました。



握った拳を手すりの外に投げ出して、ただぼんやりと眺めていたのです。指と指の間から覗く諭吉の目が痛い、と告げているようでした。私はそれを無視してただ眺めていたのです。そして不意にキラキラと光り始めたそれが何なのか、始め私には分かりませんでした。

それはまるで生きているみたいに、滑らかに水面を揺らせて流れて行ったのです。流れて、そして広がって、いつか足元の川を全部覆い尽すまで。



朝の光が、今。私を取り囲むありとあらゆるものを呼び覚ましていったのです。



そして私は思いました。いいえ、感じたのです。朝の光がこんなにも強烈なものだって、すっかり忘れていたということ。水面を滑るようにキラキラと流れる光がこんなにも綺麗だって、生まれて初めて知ったということ。





私は手の中の諭吉をビリビリのけちょんけちょんに破って、そして春の吹雪のように空中に散らせてしまいました。


勿体無い、って叱られてしまうかもしれないけれど。でもほら、こんなにも綺麗だ。訳の分からない買い物なんかされちゃうよりも、よっぽど諭吉だって嬉しいんじゃないかって、そんな風に思ったのです。


細かく刻まれたそれがひらひら、と落ちていくのを目で追いました。そして朝の光の中で、眩いその水面の向こうに、私はもう一度あの頃の青い、青い、目の覚めるような青色をした君に出会えたような気がしました。



ちゃぽん


と、水面から顔を出した君が今、橋の上にいる私の目の前を抜けて高く高く空へと昇っていくのを確かにこの目で見たような、そんな気がしたのです。





青い魚は浮かんで飛んで、


そして、


自由に、空を泳いでいくのです










そしてもう二度と会うことはないあのオジサンに心の中でさよならを告げて、汚してごめんなさい、と川の管理のひとたちにやはり心の中で謝りました。たんたん、とふたつ足を踏み鳴らし、残り半分の橋を渡り切りました。


そして帰ったら手始めにまず部屋の窓を開けよう、とそう思ったのです。



私の毎日はきっと今日からまた、何度でも


はじまっていくことができるのだ、と










END
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