L-SS(BOOK)03
□マリンスノウ
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黙って消えるつもりだった。言葉を吐けば全てがみっともない言い訳にしかならないことを知っていた。決して彼女の同意は得られないと知っていた。だから口を噤み、何も残さず、消えるつもりだった。
「…そんなに愚鈍な女だと思われていたとは」
「あなたの前で些かありのままの自分を曝け出し過ぎたことを後悔しています。まさか勘付かれるとは」
「このまま消えて二度と私には会わないつもり?一生」
「消えたものは元には戻らないものです」
「煙みたいに?」
「はい」
「残される側の気持ちって、考えたことある?」
「あります、が。最悪な気持ちになったのでそれ以上考えることを放棄しました」
「つまりそういうものを私に残すことになるんだから何も残さず、なんて不可能じゃない」
「…そうですね」
「不完全な計画こそ、放棄するべきじゃありませんか?」
「その口調は本気で怒っていますね」
「怒ってるわよ」
「しかし結論は変わりません」
「変わるよ」
「変わりません」
「変えるよ」
「変えません」
「…変えてよ、」
いつものむくれた顔ではない。本気で怒るとき人は目だけで怒るのだ。表情そのものは静かで、腹の底から沸いてくる怒りは目に溜まるのだ。彼女を本気で怒らせて、この手を振り解き突き放すように去らなければならないのだ。
「…海の底って、見た事ありますか」
「テレビで見たよ、深海生物の番組で」
「そこには太陽の光も届きません」
「そうらしいね」
「ただ暗く、何も見ることのできない場所です。水は冷たく、生きられる生物の種類は限られています」
「何が言いたいの?」
「私はそういう場所に生きています」
「…だから何」
「あなたはそこに来るべきではない」
「竜崎に決められる筋合いはない」
「あなたはそんな場所では生きられません」
「竜崎は生きてるんでしょ」
「私はそこで生まれました」
「……どうしても、消えるなら、」
「はい」
「先に私を消してよ」
彼女から表情が消える。怒りを含んだ目はその温度を失い、冷たく色を失くしていく。
「できるでしょ?証拠も残さずひと一人消すぐらい、竜崎なら」
「……本気ですか」
立ち上がり、突っ立った彼女の身体を引き摺って壁に押し当てた。その衝撃で一瞬閉じた目をゆっくりと開き、彼女は言った。
「…消してよ」
彼女は私の手を取って、喉元に強く押しつけた。
「…私が一番初めに思いついたあなたとの離れ方です」
「どうして採用しなかったの」
「…なけなしの理性、です」
「いらないよ、そんなもの」
ぐ、と力が籠る。彼女のものか、それとも私の。
「こんな最期でいいんですか」
「……このさき、竜崎、の…まぼろしを追って、生きるくらいなら……」
本望、よ
両手で彼女の首に手を掛ける。彼女の手は離れ、だらりとぶら下がる。力を、籠める。全ての音が 消えていく。
彼女が 目を
閉じる
飛びのくように両手を離した。崩れ落ちた彼女が大きく咳込んだ。
絞められていたのは彼女のはずなのに、呼吸が乱れて視界が歪んだ。
目の前の壁に思いきり頭を叩きつけた。そのまま動けなかった。
「りゅう、ざき…」
「…できません」
「臆病者」
「…はい」
「殺すことすら…できないくせに」
「…すみません」
「黙って消えるなんて、二度と言うな」
押し殺すように掠れた声で吐いた言葉が突き刺さるように響く。ゆっくりと立ち上がった彼女が私を壁から引き剝がし、胸ぐらを掴んで言った。
「竜崎が、いなくなるなんて…私のこと置き去りにして、ひとりぼっちで生きていくなんてそんなの許さないから。許さないから、許さないから!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を隠しもせずに、叫んだ。
もしも初めからこうなることが分かっていたなら、私は決してあなたに手を出したりしなかった。自分が消えるかあなたを消すことでしか止められないと分かっていたなら、絶対に。どこか遠い場所で、おとぎ話のように幸福な物語を生きてくれればよかった。太陽の光を浴びて、ありふれた尊い幸せをあなたなら手に入れられるはずだった。暗い海の底に引き摺り込んで生きていくことなど望んではいけない。どれだけ泣かれようと恨まれようとこの手を振り解いて消える、つもり。だった。
「……面と向かってさよならを言うこともできないくらい私が好きだって、離れたくないって、私がいなきゃ生きていけないって…正直に言えばいいじゃない」
「計画に破綻をきたした上に心まで読みますか。恐ろしい女です」
「……全部顔に書いてあるよ、竜崎」
彼女の手が頬に触れる。濡れた頬を撫でて、するりと髪に潜り、撫でた。
「……大馬鹿野郎、だよ」
「馬鹿野郎…は、あなたです」
爪先で立って私の身体を繋ぎとめるように抱き締める。彼女の心は暗い海の底に差す光。
それを手放すことを許さないと言った彼女の言葉にしがみつくように。その気になればいとも簡単に彼女を消し去ることすらできるこの両手で、彼女の身体に縋り付いた。馬鹿馬鹿しい言い訳よりもみっともなく、ただ。
「…竜崎、」
「はい」
「…マリンスノーって、知ってる?」
「潜水艦から深海を照らした際に見えるプランクトンの残骸、分解物…のことですか」
「綺麗、なんだよ」
「…はい」
「竜崎のいる場所から、そういうのが…きっと見えるよ」
「…そうですね」
「一緒に、見たいよ」
「………認めざるを得ません。私の負け、です」
深海の底に降り積もる海雪。掴もうとしても儚く消えてしまう。それは彼女が隣にいなければ、ひとりきりでは、決して見ることのできない情景。この身を窶すほどの、彼女への憧憬。
END
2022/1/30
窶す=やつす。書けない。