□第一環
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「ニーナ。君、この辺りの地図を持っていないか?」

 周りのそんな茶番事は全く眼中にないヴィヴィアンは程よく尖った顎に指を当て、用件のみを口にする。
 実際彼はとても重大な件を抱えていたがそのせいばかりではない。
元々他人になど興味が無いのだ。
自分さえ良ければそれで良い。

 なぜなら俺は世界に最も有益な存在、天才魔術師ヴィヴィアンヴァルツだから。

「地図…ですか?」
 唐突な質問にニーナは、小さく首を傾けた。
「それなら店に行けば……。宜しければどうぞ、こちらです!」
 憧れの有名人が、しかも向こうからやって来た。
少女は軽くステップを踏む足取りでヴィヴィアンを招くと、就寝した家々の奥を指さす。

 指の先には町の端にどっしりと構える長屋が一軒、ドアの隙間から明かりを溢していた。
ニーナは木製の扉を両手で押し開き、騒がしい声を紫煙の中に飛び込む。

「父さん、お客様だよ!一番高い酒をお出しして!」
「いや…あの…俺は地図さえあれば…」

 店内はむさ苦しい仕事帰りの猛者達が席を埋めていて、何事かと一斉にこちらを振り向く。
汗とアルコールと煙草の混じり合った臭気。
思わず鼻を押さえ顔を背けるヴィヴィアンの非礼に主の眉が上がった。

「ニーナ、その男は何だ?どこから来た?」

 カウンターで腕に刺青をした男のグラスにウォッカを注ぎ、彼は聞き返す。
(それはこっちが知りたいくらいだ)

 それにしても、こんな脂っこい大男からよくニーナの様な小柄な娘が生まれたものだ。
ヴィヴィアンは引きつった笑みを浮かべ、手をひらひらと挙げた。

「この御方は世界的に有名な魔術師様よ。内緒の仕事でいらしてるんですって」
「…」
 ニーナの父親は娘の手前言いたい文句を呑み込み、口を真横に結ぶ。
如何にも怪しげな優男を一番目につく監視しやすい席に座らせると無言で背中を向けた。

(…浮いている)

 彼女はヴィヴィアンを一人残し、地図を探しに二階の私室へと駆け上がる。
慣れない場末の雰囲気に腰の落ち着かない魔術師の隣へ、するりと酔いの回った若い男が
肘を付いて覗き込んで来た。
「兄さんべっぴんだね、本当に男かい?」

 話す度アルコールを含んだ息が自慢の銀髪を揺らす。
後ろの円卓で仲間がニヤニヤと見守る中、男はヴィヴィアンの胸を手の甲でざわりと撫でた。
「!」
 馴れ馴れしくも屈辱的な行為に腑が沸き立つ。
「気安く触るな。俺様を誰だと思って…!」

 言いかけ、ずしり…と地面が沈んだ様な感触にヴィヴィアンはカウンターを叩いて立ち上がった。
魔術が使えなくても肌で察する感覚までは消えていない。
 この不自然な、大地の軋み。
魔力を持たない一般人には何も感じない、この揺れは大地の震えではない。
空気が一定空間に密閉され、重力の濃度が変わる。

(魔法陣が発動した、閉鎖空間の重み!)

 何者かがたった今魔法陣を引き、辺りに魔術を施した。
範囲の程は此処からでは測れないが、閉じ込められた事実に間違いはない。
(こんな時に…)
 面倒事には関わり合いに成りたくなかったのに。
偶然にもそれは男の行為にいきり立った様、周囲に映る。
「おい!俺達とは目も合わせたくないってか!?」

 肩を掴まれ意識は崇高な魔術的思考から一転、醜悪な酒場へと呼び戻された。
 何だ?と振り返り、軽薄なその顔を再び瞳に映す時には。
男の拳がヴィヴィアンの横面にめり込んでいた。

「!?―っ…うぁ!」

 無防備だった身体に加え、元々肉体の直接攻撃に脆い。
軽く椅子から吹き飛び、床に倒れる彼をニーナの父親が蔑んだ笑いを投げる。

「ふん…うちの娘に何かしたらもっと酷いぜ?」
 やはり彼はヴィヴィアンを娘に近づく「悪い虫」と認識していたのだ。
(くっついて来たのはあっちからだ!)
 ばったりと床に倒れる端で、自分を殴った男と仲間らしき数人が手を打ち合わせ笑っている姿が逆さまな視界に入る。


 ―何が愛だ、何が幸せだ。

 痛みに引きずられ沈んで行く意識と身体。

『キミはもう少し周囲の寛大さに感謝して生きるべきだ』

(ふざけるな…誰が…っ!)
 纏わりつく暗闇の中でヴィヴィアンは記憶の片隅に残る、満月を背に微笑む謎の女に毒付いた。
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