空の境界 夢小説
□蝉時雨
1ページ/4ページ
――ケフッ! ゴフッ! ゲフッゲフッ!
痰の絡んだ咳が出る。喉がキリキリと痛み、頭痛が思考力を奪う。ぶるりと体が震えたので、毛布を手元に引き寄せた。
外では蝉がけたましく鳴いている。頭に染み付くようなこの騒音のせいで寝れやしない。
悪寒はするのに、部屋は蒸し暑い。エアコンではなく扇風機を当て、なんとか熱中症にならないように調整をする。
もう3日もこんな調子だ。朝、黒桐が見舞いに行こうかと気を遣ってくれたが、咳が酷いので丁重に断っている。
体が弱ると心まで弱る。実際のところは人恋しいが、とにかく今は体を休めるしかない。
蝉時雨を振り払うかのように布団を頭まで被る。と、その時、携帯電話が着信を告げた。事前に設定してある個別着信音が、電波の向こうにいる人物を教えてくれた。
「何でせうか」
電話を取る。携帯電話独特の一息の間の後、呆れたような声が返ってきた。
『酷い声だな』
「ご存知でしょうけど風邪っぴきなんです。鼻声くらい勘弁してください」
喉と鼻がやられた見事なダミ声でそう告げると、通話の相手――両儀式は溜め息を吐いたようだった。大きな吐息がやけに耳に残る。
『分かった。それは勘弁してやる。勘弁してやるから、早く開けろ』
「は?」
開けるって何を? ジャムの蓋とか? 首を捻っていると、玄関のドアがノックされる音が微かに耳に届いた。
『開けろ』
式が有無を言わさぬ口調で言い切った。
「は!? ちょっと! もしかして家の前!? 俺今風邪引いてるんですけど!?」
思わず大声が出て、喉が擦れて痛んだ。
『知ってる。だから見舞いに来てやってるんだろ』
「移すと悪いから見舞いは要らないって、黒桐から聞かなかったのかよ!?」
『聞いた。けど、どうせろくなモン食ってないんだろ? そんなんじゃ治るモンも治らないだろうが。適当に何か作ってやるから、とりあえず鍵を開けろ。開けなかったら実力公使するぞ』
着物の帯に仕込んでいるナイフの柄を握った式の姿が、脳裏に浮かんだ。風邪による寒気とは別に、ぶるりと震える。
「待て、待て。分かったな、待てよ?」
『早くしろ』
まったく強引な奴だ。実力行使すると言われたら言いなりになるしかないではないか。熱と頭痛で重い体を引きずるようにして、1DKの部屋の1の部分、すなわち寝室に式を迎え入れる。
「……汚い部屋だな」
「うっせー」
さすがに衣服はきちんとタンスにしまう主義だが、本やCDが手に取りやすい場所に散乱している光景は、お世辞ならともかく綺麗とは言い難い。だが言い方ってものはあるんじゃないだろうか。せめて生活感がある部屋だなとか。
――ゲフッ、ゲフッ!
また咳が喉を吐いた。式に移してはマズいと、薬や絆創膏などの医療品を収納してある棚を開け、マスクを取り出して着ける。一気に暑苦しさが増すが、この際腹をくくるしかない。
式の方を振り返ると、さすがに少し心配そうな顔をしていた。
「熱は?」
「さっき計った時は、7度6分だった」
高熱ではないが、決して低くもない数値だ。
「食欲は」
「無い」
式は「そうか」と呟くと、台所を借りると宣言してさっさと行ってしまった。食欲の有る無しはとりあえず聞いただけだったらしい。
再びベッドに横になった。随分強引な見舞いだが、少しだけ気が軽くなった気がする。
姿が見えなくとも、ひとつ屋根の下にいると不思議と気配で分かるものだ。ひとりじゃない。風邪で消耗した心と体を、安堵感が埋めていく。
あれほどやかましかった蝉時雨が段々と遠くなり、瞼が重くなっていくのを感じた。