空の境界 夢小説

□蝉時雨
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 ――ケフッ! ゴフッ! ゲフッゲフッ!


 痰の絡んだ咳が出る。喉がキリキリと痛み、頭痛が思考力を奪う。ぶるりと体が震えたので、毛布を手元に引き寄せた。
 外では蝉がけたましく鳴いている。頭に染み付くようなこの騒音のせいで寝れやしない。

 悪寒はするのに、部屋は蒸し暑い。エアコンではなく扇風機を当て、なんとか熱中症にならないように調整をする。
 もう3日もこんな調子だ。朝、黒桐が見舞いに行こうかと気を遣ってくれたが、咳が酷いので丁重に断っている。

 体が弱ると心まで弱る。実際のところは人恋しいが、とにかく今は体を休めるしかない。
 蝉時雨を振り払うかのように布団を頭まで被る。と、その時、携帯電話が着信を告げた。事前に設定してある個別着信音が、電波の向こうにいる人物を教えてくれた。


「何でせうか」


 電話を取る。携帯電話独特の一息の間の後、呆れたような声が返ってきた。


『酷い声だな』

「ご存知でしょうけど風邪っぴきなんです。鼻声くらい勘弁してください」


 喉と鼻がやられた見事なダミ声でそう告げると、通話の相手――両儀式は溜め息を吐いたようだった。大きな吐息がやけに耳に残る。
 
『分かった。それは勘弁してやる。勘弁してやるから、早く開けろ』

「は?」


 開けるって何を? ジャムの蓋とか? 首を捻っていると、玄関のドアがノックされる音が微かに耳に届いた。


『開けろ』


 式が有無を言わさぬ口調で言い切った。


「は!? ちょっと! もしかして家の前!? 俺今風邪引いてるんですけど!?」


 思わず大声が出て、喉が擦れて痛んだ。


『知ってる。だから見舞いに来てやってるんだろ』

「移すと悪いから見舞いは要らないって、黒桐から聞かなかったのかよ!?」

『聞いた。けど、どうせろくなモン食ってないんだろ? そんなんじゃ治るモンも治らないだろうが。適当に何か作ってやるから、とりあえず鍵を開けろ。開けなかったら実力公使するぞ』


 着物の帯に仕込んでいるナイフの柄を握った式の姿が、脳裏に浮かんだ。風邪による寒気とは別に、ぶるりと震える。


「待て、待て。分かったな、待てよ?」

『早くしろ』


 まったく強引な奴だ。実力行使すると言われたら言いなりになるしかないではないか。熱と頭痛で重い体を引きずるようにして、1DKの部屋の1の部分、すなわち寝室に式を迎え入れる。


「……汚い部屋だな」

「うっせー」


 さすがに衣服はきちんとタンスにしまう主義だが、本やCDが手に取りやすい場所に散乱している光景は、お世辞ならともかく綺麗とは言い難い。だが言い方ってものはあるんじゃないだろうか。せめて生活感がある部屋だなとか。


 ――ゲフッ、ゲフッ!


 また咳が喉を吐いた。式に移してはマズいと、薬や絆創膏などの医療品を収納してある棚を開け、マスクを取り出して着ける。一気に暑苦しさが増すが、この際腹をくくるしかない。

 式の方を振り返ると、さすがに少し心配そうな顔をしていた。


「熱は?」

「さっき計った時は、7度6分だった」


 高熱ではないが、決して低くもない数値だ。


「食欲は」

「無い」


 式は「そうか」と呟くと、台所を借りると宣言してさっさと行ってしまった。食欲の有る無しはとりあえず聞いただけだったらしい。
 再びベッドに横になった。随分強引な見舞いだが、少しだけ気が軽くなった気がする。

 姿が見えなくとも、ひとつ屋根の下にいると不思議と気配で分かるものだ。ひとりじゃない。風邪で消耗した心と体を、安堵感が埋めていく。
 あれほどやかましかった蝉時雨が段々と遠くなり、瞼が重くなっていくのを感じた。





 
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