しゃぼん玉。

□シグナル
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 目の前の信号が青に変わって、少女はペダルをこいだ。渡りきって、左に曲がるため、止まる。その信号が赤だから止まったとはいえ、通る車は一台もない。通勤中のサラリーマンやキャリアウーマンが、果ては小中学生までもが、彼女の横を過ぎていった。
 信号はまだ赤のままだ。
 青になるのを待って、少女は再びペダルを踏んだ。

 車が耳障りな騒音をたてて、ガードレールに突っ込んだ。それでも、避けようとしていた小学生をはねている。
 信号は歩行者が青、車も青。
 左折してきた軽トラックに、突き飛ばされたは女の子だった。
 その光景をぼさっと見ていた少年は、しかし誰より早く行動を起こす。携帯を取り出して119番に、ついで警察に連絡を入れた。
「──ええ、そうです、高見台三丁目の《頂》交差点です。……跳ねた軽トラは逃げました。」
 少年は、話ながら児を抱き上げる。目立った外傷こそないが、頭が少し切れている。骨は全部正常なようだが、何より大事な意識だけは、無かった。
「──いい加減にしてください! まず現場にきてください!!」
 怒鳴って少年は携帯を投げた。壊れたら自腹なので壊れない程度に、それでも怒りをぶつけて。
「大丈夫か? しっかりしろ!!」
 彼は普段、少年団と称すサークル的活動に参加している。ゆえに、意識がない場合の対応も知っていた。鎖骨を叩きつつ、呼吸を確かめる。脈拍ともに、正常。
「どなたかお知り合いはいませんか!!」
 呆然とするだけでなにもしない大人たちに呼び掛ける。彼らは皆皆三メートルは離れたところにいるだけで、表情にも憐れみを浮かべるばかり、動こうとしない。
「何事ですか……?」
 人垣を割って入ってきたのは一人の女性。上下にスウェット、髪には寝癖がついている。よほど焦ってきたのだろう。
「……っ!? 遥奈!?」
 少年の抱き抱える小児を見るなり、彼女はその場に崩れた。
 何処かから救急車のサイレンが聞こえてきて、少年は立ち上がる。モーセの十戒を見るかのような気分に、少年はなった。まるで、少女が助からなかったら邪魔だったお前のせいだ、そう責任を押し付けられることを恐れるかのように、青ざめた顔で。同時におそらく、救急隊に自らが何もせず突っ立っていたことを見られるのに、恥ずかしさも感じているのかもしれない。
 割れた人の間から、救急車の担架がやってくる。少年は隊の青年に女の子を引き渡し、女性に手を伸ばした。
「お母さんでしょう? 行かないと」
「わ、私は……。私が悪いんです」
 少年は仕方なしに、女性の手首を掴んで引き上げた。
「話はあとです。懺悔してる暇があるなら乗ってください」
「なら、あなたも」
 少しだけ、少年は思案した。それから、救急士に問う。
「乗れますか? 二人」
「一人だけでお願いします」
「そうですか。ならやはり、あなたが。電話番号です。病院がわかったら教えてください。すぐに行きますから」
 少年は生徒手帳を切り取って、自らの携帯番号をそこに記し、渡した。
「さぁ、行って」
 その一言を合図にドアが閉められ、辺り一面にサイレンを響かせながら救急車は出た。
「ちょっと、いいかな?」
 振りかえれば、刑事らしき男。手帳に記された階級は巡査部長。
「車の特徴、なんか分からんかな?」
「白い軽トラであることしか。ナンバーはちょっと。……そこにぶつかっていたので傷があるはずです」
「そうか……。よし、鑑識! 働け!! タイヤ痕から──」
 少年は警官から離れ、携帯を拾い上げた。幸運にもイカレていない。
 ──とりあえず、駅まで歩こう。
 学校へいくにしても病院にいくにしても、歩いてはいけないのだから。

「私が、ちんたら化粧なんか始めたから悪いんです。だから待ちきれなくてあの子は……っ」
 結局彼は病院にいた。
 少女は頭蓋骨内部に血液が溜まり、危険な状況にあることが判明し、今は手術室の中にいる。
「悔やんでも仕方ありませんよ。ただ、あの子が起きたら右と左を見て、もう一回右を見るようにいっておかないと」
「でも……!」
「大丈夫です」
 オペは数時間で無事終わった。
 麻酔が切れるまでそう長くもないと聞き、少年は病室で少女を見守ることに決める。その間、母親には化粧や家のことを済まし、食事をとるように勧めた。
「かわいそうに。ゆっくり眠り」
 頭のオペ、ゆえに頭部は無毛になっている。その頭を、少年は優しく撫でた。
「……だれ?」
 気付けばうっすらと開けた目で、少年は見られていた。
「ごめんね、お母さんがよかったよね。いまご飯食べにいってるから。僕は代わり」
「……においがする。あたまいたいときにかいだきがするの」
「……そっか」
 目覚めてすぐ話をするその生命力の強さに、少年は眩しさを感じた。もう少しで失うかもしれなかった輝きに。
「もうすぐ、お母さんくるからね」
「うん!」
 心底嬉しそうな少女の笑みに、本の少しだけ少年は傷ついた。

 携帯が鳴るのを感じて、少女は自転車を止めた。ボタンを押して耳に当てる。
「あ、もしもし遥奈? ねぇ聞いて……」
「ごめん、今チャリだから。後でかけなおすね?」
「あ〜はいはい。アンタ昔から片手で乗ったりしないもんね……。んじゃ待ってるよ〜♪」
 通話を終えて少女は携帯をしまい、また進みだす。
 ──なんか、思い出しちゃうな、あの匂い。暖かくって胸がドキドキした。今どうしてるんだろ。
 もう十年と少し経った。傷も全く残っていない。
「信号は、怖いんだよ」
 誰にでもなく呟く。青でわたっても事故に遭う。赤でわたれば確率は跳ね上がる。
 ──まだまだかな。
 少女は今年も、自分の出た幼稚園で信号の話をしようと、決めた。
 
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