しゃぼん玉。

□夜、雨、月
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「げ、雨かよ」
 地下に掘られたプラットホームから階段を上って改札を抜け出たところ、彼は足を止めた。昨日も夕立に降られたために、折り畳み傘をアパートのベランダに干してきてしまったのに、どうしたものか。取引先に向かった上司と外回りの仕事をしてきて、スーツは一張羅だ。あまり濡らしたくはない。
 ベッドタウンというのは住むに良いところだが、こういうときに困る。スーパーこそ多いものの軒並み午後九時には店を閉めてしまう上、駅前のバスターミナル付近にコンビニはない。ビニール傘を買うにもなかなか簡単なことではないと、彼は痛感した。
 雨宿りができそうなのは、この町で唯一24時間営業するファーストフード店だけ。普段はもっぱら健康の天敵だと近寄らないが、仕方ない。
 ──コーヒーでも飲むかな。
 小走りに彼は、店内に入った。
「いらっしゃいませ」
 カウンターで迎える若い女性に、珈琲を注文する。小銭を探す間に砂糖とミルクを問われ、頼んだ。
「雨宿りですか?」
「……ええ」
「客席閉じてましまったんですが……ここでよければごゆっくりどうぞ。はい、コーヒーです」
 渡されたのはリッドの付いたホットカップ。
「ミルクと砂糖とマドラーは?」
「混ざってますよ」
 店員は笑って、空になった容器を彼に見せた。
「ありがとうございます。……こんな日でも雨宿りの人は少ないですか?」
「ええ。この辺りファミリー向けの物件ばっかりだから迎えにきてもらう人が多いみたいで。客席もしまってますし」
「成る程」
 彼はリッドの口を開け、中身をすすった。想像していたファーストフードのコーヒーよりはいくぶんましな味で、彼は内心安堵する。
「あなたこそ、なぜこの町に? 独身みたいですし、一人で住むにはいいところではないでしょう?」
 店員はもはや仕事をする気はないようだ。もっとも、彼にとっても暇潰しに話し相手がいるのは嬉しいことで、何も文句は言わない。
「昔住んでて好きだったので。親父の遺産を頭にローン組んで一戸建て買いました」
「……すみません」
「いえ、気にしないでください。もう三年も前です」
 ビールをあおるように、彼は冷めたコーヒーを一気に飲んだ。お代わりを、と店員がコップを受けとる。
「ここにきたのは始めてですね?」
「ええ。なぜ?」
「見たことないからです。三年働いてて。……もうすぐ十時ですね。シフト終わりなんで、スタッフルームからお客さんの忘れ物漁ってビニ傘持ってきますよ」
「いいんですか?」
 彼はカップを受け取りつつ、問うた。
「どうせ誰も取りにきませんから」
 屈託なく笑う彼女に、彼は尊敬の念を覚えずにはいられない。初対面の人間にそこまでそうしてくれる人はそういない。
「失礼します。──おはようございます、桃さん」
「おはようございます」
 彼の後ろを抜けてカウンターに入った、自分と同年代だろう男性が、彼女から仕事を引き継ぐにあたり、二、三言葉を交わした。そして、時計の長針が12を指す。
「お疲れさまです」
「お先失礼します」
 軽く頭を下げて挨拶をした彼女は、待っててと呟いて小走りに客席とを隔てるシャッターの向こうに消えた。
 待つこと暫し。
「おまたせ」
 二本の傘をもつ彼女に笑いかけられて、彼は笑った。
「ありがとう」
 二人は出会ったばかりに思えない呼吸の合い方で、店を出た。
「雨、やんでますね」
「ですね。月が綺麗……」
 立ち止まって空を見上げる二人の前を、地下鉄の駅が吐き出したサラリーマンらが通り過ぎる。
「それじゃ、こっちなんで。……楽しかったです、話せて」
「こちらこそ。それじゃあ、また。お店で待ってます」
 裏を返せば店にこいという意味にもなる言葉に彼は笑って、
「はい、また」
 軽く手をふった。
 
 何年かして二人が同じ屋根の下住むことになるのは、また別のお話。
 
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