頂 物

□心の音
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人は皆いずれ朽ち果てるもの。

それを受け入れなければ医者なんてやっていけない。
私は私自身の手で人を死に追いやった過去もある。

そんな私が人の死に直面し、涙を流す資格はない。

冷酷と言われようと、これが私なのだから。




今日一つの命が消えた。

うちの診療所に運ばれて来た時は既に、心停止状態だった。

幼い我が子を助ける為に、激流の中飛び込んだまだ若い父親の命は、懸命な処置の皆もなく、その灯を消した。

まだ三つほどの幼子は、父の死の意味もわからずに無邪気に笑う。

泣き崩れる母親の背を玄斎先生が摩りながら宥める光景が目に焼き付いた。

私は深く頭を下げ、逃げるようにその場を後にした。




「よう、女狐、奇遇だな。」


全ての仕事を終え、一人酒場で呑んでいた私の隣に、どかっと腰を下ろした男をちらりと見遣り、視線を戻す。


「なんでぇ、辛気臭い顔しやがって。」


その男、左之助はその逆立った頭髪を豪快に掻き、店主に冷酒を頼む。


「私、あんたに奢る気はさらさらないわよ。」


冷たくあしらい、猪口の酒を流し込んだ。
喉元を通る酒はよく冷え、安酒にしては舌触りが良い。


「お生憎、今日はツキがよくてな。」


にかっと笑い、懐をばんっと叩く。
どうやら賭博で儲けたようだ。
その気楽そうな表情がやけに気に障った。


「私は一人で呑みたいの。邪魔しないでちょうだい。」


「ご機嫌ななめだねぇ。何か悩みがあるなら俺に話してみろや?」


左之助は頼んだ冷酒を店主から受け取り、私の猪口に酒を注ぐ。


「…もう帰るわ。じゃあね。」


こいつと居ると調子が狂う。


私は店主に支払いを済ませ、左之助をちらりとも見ずに店を出た。




河沿いの柳の木の下で立ち止まり、闇に浮かぶ月を見上げた。
初夏の夜風が心地よく柳と私の髪を揺らす。



「なんでついてくるのよ。」


振り返らずに、店を出てからついて来る気配の主に問い掛けた。


「夜道の一人歩きは危険だからな、お姉さん。」


飄々と答え、口笛を吹く男の憎たらしい姿が振り返らずしても想像できた。


「ほっといてくれない?自分の身くらい自分で守れるわ。」


苛々する。胸がざわめく。


「…今日、川に落ちた子供を助けた男がいたんだってな。」



左之助の言葉に心臓が跳ねる。



「そいつ、川からあげられた時には、息してなかったみたいだな。」


亡骸の安らかな顔と、泣きじゃくる妻の姿が脳裏に浮かぶ。



「助からなかったんだろ?」



「何が言いたいの!?」



堪らず振り返り、左之助を睨み付けた。
わなわなと震える身体を押さえ付けるように、硬く両手を握りしめる。



「医者にだって限界があるの!今の日本の医療では助からない命はいくらだってあるわ。」



じっと私を見つめる左之助の瞳から逃げるように、顔を伏せた。



「いつか…、いつか人は死ぬのよ。悔やんでなんかいられないわ。」



脳裏に浮かぶのは、父を亡くした幼子の笑顔。


そして、幼い頃見た戦火の光景。



「悔やんだっていいじゃねぇか。」


左之助の声に顔を上げる。目の前に立つ彼は、優しく微笑み見下ろしていた。


「お前だって辛かったんだろ?泣きたかったんだろ?」


違う、違う。


私は死者の為に涙を流す資格はない。


泣いたって人は生き返らないから。


「お前は誰より慈悲深い女だ。誰よりも人の死の重さを理解してる女だ。」


やめて、やめて。


俯いたままの私の身体を左之助はその大きな身体で抱きしめる。



「泣きたい時は泣けばいいじゃねぇか、もう自分を責めて我慢するな。」



その言葉を聞き、涙が堰を切ったかのように溢れ出した。



私は…、助けたかった。

あの若い命を。

あの幼子に親を亡くす辛さを味わわせたくなかった。
自分が一番知っている辛さだから。



左之助は、背中を一定の速度でぽんぽんと叩く。
安らぐ心地よい振動。



「なぁ、恵、俺の心の音はちゃんと聞こえるか?」



左之助の胸から聞こえる命の鼓動。
人がここに居る証の音が、私を安らぐ気持ちにさせる。


私はその音を確かに聞き、頷く。



「これからも助からない命はあるだろうよ。だけど、その命の分までお前は医者として出来る事をすればいい。」



「それが本当の償いなんじゃねーか?」



阿片で奪った命。

医者として救えなかった命。

数え切れない程の命が消えていった。


けれど、あの若い父親が救った命を途絶えさせぬように。


私は私の出来る限りで守っていきたい。



「有難う、左之助。」


涙を指先で拭い、その温かい身体を抱きしめたまま礼を言う。



「ここはいつでもお前の為に空けておいてやるからな。」



さらりとらしくない台詞を吐いた左之助を笑うと、頭の上から非難の声がした。


「私の泣き場所はここだけなんだから、誰にも渡しちゃ駄目よ?」



少し見上げて彼を見ると、照れ臭そうに笑っていた。




私は、私の感情を押し殺すことが償いだと思っていたの。


けれど、あんたは私の目を覚まさせてくれた。


諦めるより悔やむほうがいい。


涙を我慢するより泣きたい時は泣けばいい。


医者である前に、私は、一人の人間なのだ。



これからは自分に素直に生きて行こう。


私には素直になれる場所が漸く出来たのだから。



この誰よりも温かい心の音の、聞こえる場所が。









素敵サイト おくりもの ハルアキ様から頂きました☆

恵さんの心はやはり左之じゃないと受け止められない!と確信した一品です。
なんていいお話なんだ・・・涙

ハルアキ様、ありがとうございました〜♪

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