頂 物

□またね
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またね



ずっと一緒にいられるわけがないと思っていた。
隣にいても、笑い合っても、弥彦君は更なる高みを目指しているのが分かったから。

彼の夢は日本二の剣客になること。

そのために日々精進している姿を私は何年も見てきた。
今でも充分強いと思うけど、本人は「まだまだだ」と不満そう。
既に道場の師範代の肩書きを持ち自身も教える身となっているのに、時折思いを馳せるように遠い目をする。
それは道場で指導中のときでもあり、私と一緒にいるときであり。
そうなると私だって嫌でも分かってしまう。



いつかは自分とは別の場所へ行ってしまうことに。



だからいつ切り出されてもいいように私なりに覚悟はしてきたつもりだ。
でも、そんな覚悟は実際何も役に立たないことを思い知ることになる。
それが、今日の午後のことだった。




















「しばらくここには来れねぇ」
切り出されたのは赤べこの炭置き場。
師範代になる少し前に弥彦君は赤べこを辞めていたけど、昔のよしみで繁忙期などは手伝いにやってきている。
今も厨房から言いつけられ、こうして私と二人炭を運びにやってきたのだ。
既に当たり前のことになっている時間の中でそんな重大なことを告げられてもすぐ理解できるわけがなく。
「来れないって・・・出稽古が増えたの?」
最近は弥彦君も師匠である薫さんと同じように出稽古に駆り出されるようになった。
潰れる寸前だった神谷道場も今では門下生が溢れんばかりに増え、剣術大会では上位に道場の門下生の名前が連なっている状態だ。
評判を聞きつけた遠方の道場からの稽古の依頼も多くなり、弥彦君も毎日忙しく飛び回っている。
今回もそうなのだろうと軽く考えていたけど、次の言葉を聞いて思考が一瞬停止した。



「いや。俺がしばらく旅に出ることになった」
「え」



炭を抱えた状態で私は動けなくなった。
麻袋に詰められた炭の重さがずしりとのしかかるけど、それを支えている腕も地面に立っている足も自分のものではないような気がした。
「期間限定だけどな」
動かない私を見て炭が重すぎたのかと解釈した弥彦君は、手を伸ばして麻袋を奪った。
「先代の師範・・・つまり薫の父親なんだけど、昔の知り合いが水戸で剣術道場をやっているんだと。そこがウチと同じくらい剣術大会上位入賞者の集まりでさ。一度行ってみたいって薫に話したら先方に話をつけてくれたんだ」

返事の出来ない私の代わりに厨房から催促の声がかかる。
おう、と弥彦君が威勢よく声を返し、麻袋をひょいと肩にかける。
一緒に働き始めた頃は弥彦君だって麻袋を抱えると足元がふらついたのに、今じゃ軽々と持ち上げている。
私にはとても真似できない。

歩き出そうとする背中に、弥彦君、と小さく呼びかけた。
振り向いた弥彦君に自分でも驚くほど平静な声で聞いた。
「もう決めたんだ?」
「ああ」
即答された返事で彼の決意の固さを知る。
「―――そっか」
ぽつりと呟いたきり何も言わない私に何か話しかけようとしたけど、再度かかった呼び出しで弥彦君は今度こそ中へと戻っていった。
その背中が遠ざかるのを、私は呆然として眺めていることしか出来なかった。










中に戻ると店内は昼時を過ぎても嵐のような忙しさだった。
落ち込んでいる時間などなかった。
いつものように笑顔で注文を取りに行き、馴染みの客と仕事の合間に歓談した。
だけど心の中ではぐるぐると複雑な感情が渦巻いていた。



――――――弥彦君、やっぱり行っちゃうんだ。



もう今までみたいには会えない。
でもさびしいとか置いてかないでとか泣き言もいえないくらい、弥彦君の目はもう前を見ている。
(でも昔から強くなりたいって言っていたし)
そんな弥彦君を自分も応援していたはずではなかったの?

なら「頑張れ」とか「応援している」とか言えたらいいのかな。
それとも苦しんでいる人のために日本を駆け回っている剣心さんを待つ薫さんのように「いつでも待っているから」と伝えたほうがいいのかしら?

いつかこんな日が来ると分かっていたつもりでいたけど、いざとなると何も言えなかった。
このままじゃ何も伝えられないまま弥彦君が出立しちゃう。
(そんなのダメ!弥彦君だって激励されたほうが嬉しいに決まっているじゃない)
何が伝えられるかは分からない。
でも、弥彦君の前で泣くことだけは絶対にしない。















何一つしくじることなく無事仕事を終えられたのはやはり体が慣れてしまったからだろうか。
胸に開いた黒い穴は時間が経つにつれどんどん広がっていったけど、それを面に出さずに済んだことにそっと安堵した。
妙さんに声をかけ赤べこを出たところで、提灯をぶら下げた弥彦君が引き戸に寄りかかっているのを見つけた。
弥彦君は私を一瞥すると、
「帰るぞ」
それしか言わないけど、私を送ってくれるために待っていてくれたのだと分かる。
弥彦君のぶっきらぼうなやさしさが、ほんの少し私の心を癒した。

けれどやはり寂寥感は埋めようがなくて。

半歩遅れてついていく私に弥彦君の声が届いた。
「悪かった」
は、と顔を上げた。
でもそこで見たのはいつもと同じ背中。
私を見ないまま、弥彦君は続けた。
「昼間のこと・・・いきなりあんな話したら誰だって驚くよな。でも、考えていたのはかなり前からなんだ」
普通に振舞っていたつもりなのになんで弥彦君にはすぐ気付かれちゃうんだろう?
ううん、言いたいのはそういうことじゃなくて。



分かってるよ、弥彦君が何を目指しているのか。

ちゃんと伝えたいのに、言葉が出てこない。

ああ、なんで私はいつもこうなんだろう。
弥彦君が謝ることなんて全然ないのに。



黙りこくったままでいると、不意に弥彦君の手が差し出された。
誘われるまま自分の手を乗せると、普段の彼からは想像できないくらいやさしく握り返してくれた。

きっと、私が寂しいって思っていることに気付いちゃったんだ。

だとしたらこれ以上弥彦君に迷惑かけられない。
「いつから行くの?すぐには戻らないんでしょ?」
なるべく普段どおりの声を出すと、弥彦君も同じように答えてくれた。
「一週間後には出る。期間はひと月くらいだろうけど、実際は分からねぇ」
「そっか」
「出来れば自分が納得するまで向こうで色々学んできたいと思ってる」
「・・・・そっか」
さっきから「そっか」しか出てこない。
こんなときこそ笑って見送らなきゃいけないのは分かっているけど、私はそんなに強くない。



何で薫さんのように笑えないんだろう。
何で弥彦君を困らせるようなことしか出来ないんだろう。



目頭が熱くなるのが感じられ、慌てて目をぎゅっと閉じた。
再び目を開けたときには涙は引っ込んだようで、彼の前では絶対に泣かないという誓いは何とか守られた。










気付けば私の家はもうすぐだった。
何だか弥彦君の歩みが遅くなったような気がする。
でもどんなに遅く歩いても、すぐ自宅に着いてしまう。
何か言わなきゃと思って色々考えているけど、結局自分には出来ないことばかりだ。

だったらせめて。










「燕?」
弥彦君が驚いて歩みを止めたのは、私が彼の手を強く握り締めたから。

私は笑顔で見送ることなんて出来ないし、あとは任せてなんて胸を張ることも出来ないけど、それでも弥彦君を応援している気持ちは本当だから。

そんな色んな気持ちが握り締めた手から全部伝わるわけもないけど、私は離せずにいた。
そうでもしないとまた涙腺が緩みそうだ。



ただそばにいる毎日がこれほど大切だったなんて何で今気付くんだろう?



特別なことなんて何もいらない。
私は弥彦君とずっと一緒にいたい。

だけどそんなこと弥彦君には言えない。
弥彦君は夢を掴もうとしているのに、邪魔をしたくない。

私は笑顔を贈ることはできないけど、せめてこれだけは。
うつむいたまま私は口を開いた。










「またね」










またね。
また会おうね。
またいっぱいおしゃべりしようね。
どんどん成長していくあなたをまた私に見せてね。

この一言にこんなにも色んな想いが詰まっているってことは、きっと一生弥彦君には言えないだろう。
だから。



「またね、弥彦君」
絶対よ。



黙ったままの弥彦君から自分の手を抜き取ると、はっとしたように呼びかけられた。
「燕!!」
でも私は振り向かずに家の中に入った。
いつもより強めに戸を閉めたのは、これ以上話すことはないと弥彦君に理解してもらうためだ。
戸を一枚挟んで、弥彦君が呼びかけようかどうしようかと逡巡している気配がした。
やがて小さなため息が聞こえ、弥彦君は帰っていった。
私は弥彦君が去った後もその場に立ち尽くしていた。
「――――――またね」
忘れかけていた涙がすぅっと頬を伝っていった。
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