いちご†盗人
□1、All's fair in love and war.
2ページ/15ページ
「どうしたの」
坂口肖衛(さかぐち・しょうい)―― もっさりした時代遅れの七三分けと、顔の半分を覆い隠す黒ぶち眼鏡が特徴の、三十八歳。
まともな会話すらしたことがないけれど、彼は今日から私の配偶者。つまり夫だ。
そして今晩こそが、俗に言う新婚初夜、だったりする。
けれど私は、彼と愛を営むつもりなんてない。微塵もない。
だから朝日を見るまで逃げ切ろうと思っていたのに、よりによって兵糧に足をすくわれるとは一生の不覚だった。
来ないで。近寄らないで。言いたいのに声が出ない。
遠のく意識の中、筋肉質な腕がこちらへと、伸びてくるのがぼんやり見えた。
――ああ、捕まってしまう――。
途端、私の脳裏にはデジャヴュのような光景が映し出されたのだった。
こちらを心配そうに見下ろしている、彼、の姿が。
『せいなちゃん、大丈夫?』
あれはたしか、私が小学校に上がるか上がらないかというころ。
相手はやはり年上の男のひとで、私のことを、ずっと『せいなちゃん』と呼んでいた。
それは私が舌っ足らずだったために、自己紹介をしくじった所為なのだけれど。
『わたし、**くんのこと、だいすき』
『じゃあ、僕のお嫁さんになる?』
『うん!』
あんなことも約束したっけ。
顔を思い浮かべても、すりガラス越しの像しか結ばない。名前も声もぼんやりとしか思い出せない。
私がこうなのだから、向こうもとっくに忘れてしまっただろう。
これはつまり、現実はそんなに甘くなかった、ってことになるのかな。
そう思っていた私は、後に思い知ることとなる。
この時の出来事こそ、甘いものなんかじゃなかった、ってことを。