女神の祈り

□契約の募り
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「おい」

 男の声が脳髄に響き渡る。まだ夢の中かと思ったが身体が揺さぶられる感覚と再度、自分を呼び起こす声がこれは錯覚ではないと証明した。

 威圧的に叩き起こす声の主に悪態をつこうとしたが、絡まった唾液がそうはさせなかった。仕様なしに気怠い体を叩き起こすと絡まった長い髪を指に絡めて軽く梳いて耳に掛ける。まだ夜は明けてないようだ。

 暗闇を手探りでベッドの脇のテーブルに鎮座するマッチ箱に手を伸ばし、箱の側面を擦り付けた。手早くランプに火を着ける。

 男の顔半分に付けられた奇妙な仮面が、姿を現して照らされる弱々しい炎でより不気味さを掻き立て身体が震える。僅かに己の鼓動が速くなるのを感じ、悟られぬよう短い息を漏らした。

 無理に起こされたお陰なのだろうか二日酔いのようにクラクラしてこめかみを強めに押した。
「これを届けろ」

 男が何かを差し出す。それを受け取ってなぞってみる。どうやら手紙のようで上質な羊皮紙に癖のない彼の達筆な文字で宛名が綴られており思わず俺は顔を歪めた。

「ふっ、そんなに喜ぶな」

 眼光を飛ばすもどこ吹く風だ。寧ろ悠々とした表情で我が物顔でベッドにどかりと腰を下した。

「あんたはいつもそう身勝手だ。面倒事は人に押し付けては行方をくらますし。その上人の名義で金は借りるわ、建物壊すわ、女は泣かすわ、あんた本当に神の使徒かよ」

 と日頃の鬱積を晴らすかの如くつらつらと彼の悪行を並べてはみたものの、取り留めもない話を延々と続けるのは時間の浪費だ。俺はまた短く息を漏らして話題を切り替えた。

「で、何だよそれ」

 露骨に眉間に皺を寄せて男を睨みつける。嫌な予感しかしない。

「紹介状みてぇなモンだ」

「誰の」

隣にいる男は愉快そうに口端を釣り上げる。

「お前の」

 耳に掛けられた髪がはらりと肩口に当たる。男の意表を突く言葉に身体の筋肉が硬直し、冷たい汗が背中を走る。

「俺はあんなとこで周りに合わせてヘラヘラして、仲良しゴッコなんて正気の沙汰じゃないよ。頼まれても御免被るよ。それがあんたの頼みでもね」

 本当にコイツは何を考えているのか全く予想できない。

「まぁカッカすんな。ひとつお前にいい事を教えてやる」

 彼は長い脚を組み替えて銀で縁取られた眼鏡をくいっと上げた。

「赤い目の男」

 その瞬間息が出来なくなった。まるで喉元を掴まれたかのように、俺はひゅうひゅうと息を切らして喘ぐことしか出来なかった。肩で息をしながら男に問うた。

「な、に、を知っている」

 口内が粘着質な唾液で溢れ返りネチャリと不快な音を立てる。とんでもない爆弾を投げてきたな、と混乱する頭の片隅で思った。

「何をつうか、知りてェんだろ?」

 男はベッドに膝を付いて俺の肩口に落ちたそれを無骨な指先で優しく掬う。

「教えてほしいか?」

 先程とは打って変わり、男女の交わりのような妖艶で危険な声。思いの外冷たい男の手にまた俺の体がビクリと反応した。男の鋭い眼差しがみるみるうちに弧を帯びて行く。

「お前は本当に、昔から変わらんな」

 昔から変わらない?一体どういうことだ?霞んだ意識の中で誰かの名前を必死に呼ぶ声。悲痛な叫びと共に発狂したように笑う赤い目の男。いつもここで目が覚めるのだ。

 すっぽり切り取られたかのように俺には記憶がない。幼少期はおろかそれ以降の記憶が全くないのだ。ただ俺という存在がそこにあるという事実しかないのである。

 ――また、

 夢で最後言いかけた女の柔らかな声。俺の内にある何かと共鳴してぐるぐるとどす黒い物が渦巻いて蓄積していくのを感じる。分からない。頭の中が混乱しすぎて吐きそうだ。

 そんな俺を監視するかのように執拗に顔色を窺う。だが柔らかくどこか優しげなこの表情。
しかし何故だかコイツの眼差しが不思議と嫌な感じがしない。少なくともコイツは何らかの鍵を握っている可能性が高いのは間違いであろう。

 男は眉すら微動だにせず表情は崩れないままである。まるで腹の探り合いだと俺は思い、また背中に冷たいものが流れるのを感じながら男の言葉を待った。

「…っつーのは昨日俺がゲームで負かした野郎が…」

「は…?」

 そんな俺の動揺をよそに彼は盛大に笑い飛ばす。

「10ギニーが50ギニーに化けたんだ!ボロ儲けだ!!」

 どこから持ち出してきたのか床には二、三本の酒の瓶が転がっている。はぐらかされたようだ。簡単にはいくまいと思ったが果てしなく癪に障る男である。未だにゲラゲラとやかましい男に制裁を加えるべく、思い切り片足を振り上げた。

 だが、その動きはいとも簡単に見破られてしまった。そして奴の脳天にのめり込むことなく、奴の大きな手に俺の足がぎゅうぎゅうと収めらるだけだった。

「あんまりおいたをするなよ?」

 そっと目線を移すと勝ち誇ったような、まるで子どもが他の子どもの玩具を無理矢理横取りした時の至福に満ち足りた、そんな顔で微笑んでいた。

 突然、男は掴んだ足をぱっと突き放す。すると支えを失った俺の足は宙に浮き、重力に逆らうことなく落ちた。俺は受け身が取れず体が安っぽいベッドに沈下して騒々しいそれのスプリングがギシギシと薄暗い部屋に反響した。
 
 男はおもむろにベッドに手を添えて横たわって俺に馬乗りになった。そして二、三度思案した表情を見せてからゆっくりと話を切り出してきた。

「どうだ?ここはひとつ等価交換で手を打たねぇか?」

 グラスに注いだワインのような長髪が逞しい肩から零れ落ち、油臭いランプに淡く照らされた男は芳しく艶めいていた。

「等価交換?」

「お前の望みを一つ聞いてやる。勿論、俺のできる範囲だけだがな。同様にお前も俺の望みに従う。互いの利害も一致する。お前にとって悪い話ではないだろう?」

 確かに悪い話ではない。しかし、このままこの男の口車に乗せられるのは非常に不安だ。道徳性・協調性は皆無ではあるがコイツの情報と仕事は確かなものだ。

 だが、いくら奴が優秀であれど余計な争いは起こしたくはない。それに、上の連中に詮索されるのも面倒だ。本当にこの契約を交わすべきだろうか?奴の真意を知るにもあの夢に出てくるものの情報を得るにも、どちらにせよ契約しなければ不利になるのは確かだ。

―――この男に賭けてみるか…
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