女神の祈り

□思いを乗せて
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ロンドン郊外の駅のホームは多くの人で溢れ返り、無秩序に行き交っていた。シーズンと重なった為か、かなり窮屈に感じる。
やはり人混みは嫌いだ。
煙草を吹かす中年男や赤子をあやす母親、高貴な老紳士、パン売りの少年。雑踏、喧騒。
全く鬱陶しい。何だか気分も悪くなってきた。
以前、船酔いした時のことを思い出した。胃液が食道へと這い上がり、鼻腔を擽るように苦味が広がっていく。
―――マズい、本格的に気分が悪くなってきた。
とある男の言伝により、世界の終焉を阻止するためヴァチカンの命によって設立された直属の対AKUMA軍事機関、黒の教団総本部へと向かわなければならなくなったのだ。
不本意にもその男と契約を交わしてしまい、彼の弟子を探す為、はるばるイギリスへとやったきたというわけだ。無事に事が進めばよいのだが。
出発も間近になった頃、若い小柄な女性が駆け足で乗り込んできた。女性は小脇に小さめのトランクを抱え、息を荒げた。
呼吸を整えつつ、キョロキョロと辺りを見渡すと座席はほとんど埋め尽くされ、女性は困った表情を浮かべた。漸く女性は座席を見つけたのか、安堵したように俺の向かいの席へと歩み寄ってきた。
「こちら、座ってもよろしいでしょうか?」
ちらりと女性を盗み見ると申し訳なさげに肩をすぼめている。彼女を立たせておくのは流石に不憫に思い、そこへ座るように勧めた。
すると女性は申しなさげに微笑み、会釈をしてから革張りのシートにゆっくりと腰を下ろした。
「申し訳ありません。急に乗り込んできてしまって」
「いいえ。そんなことありませんよ」と俺は社交辞令の返事をした。
非常に聞き取りやすい訛りのないイギリス英語で身なりからしていいところのお嬢さんといったところか。
絹糸の髪に真白の肌に筋の通った高い鼻に空を思わせるような青い瞳。そして紅の塗られた口唇は上品に微笑む彼女をより引き立たせた。
けたたましい汽笛を上げ、車輪が動き出す。
「貴方はどちらまで?」
突然の問いかけに呆気に取られたが俺は事務的に答えた。
「ロンドンまで」
「まあ!それなら私と同じだわ。久しぶりのロンドンだから落ち着かなくて」と女性は苦笑し、金糸の髪を撫でる。
ロンドンは初めてなのかとか、あの店の料理は絶品だとか、今年の冬は厳しくなるだとか、まあよく話題が尽きない女性だ。
すると彼女は俺の纏う雰囲気を察してか話題を俺へと向けた。
「ところで貴方はどうしてこちらへいらしたの?」と女性は無垢な瞳で俺を見つめる。彼女の視線を無意識に逸らすと彼女はしまったという顔をして、慌てて口を詰むんだ。
他人に介入してくるあたり箱入り娘か?はたまた天性のものなのか。どちらにせよ質が悪いのは変わりはないと俺は内心嘆息を洩らした。
「あ…ごめんなさい。余計な口を挟んでしまって。誰かとこうやってお話しすることができて凄く嬉しくて」
赤面しながらも彼女は猶も続ける。
「あの、ただの独り言なんですけど、良かったら聞いていただけますか?」
俺がゆらりと首を縦に振ると女性は俺を一瞥した後に目蓋を下ろした。
「…実は私、父の決めた人と婚約せねばならなくなったのです。あの方はフランスにいらっしゃるので故郷を目に焼付けようとこちら列車に乗りましたの」
もう二度とこの地を踏むことはないから、と彼女は伏目がちに続ける。
「とても有能な方で、それに思い上がることなく謙虚でいらっしゃって。誰にも優しい方で私にはもったいないくらい素敵な方なんですよ」
彼女の微笑は儚げなものだ。
「でも、心は満ち足りないんです。結婚なんてしたくないって。神はきっと親不孝で不出来な私をお叱りなるでしょうね」
女性は自嘲の笑みを洩らす。助言をする訳でもなく、相槌を打つ訳でもなく、俺はただひたすら彼女の独話に耳を傾けていた。
「本当のところ、教師になりたかった。だから幼い時から勉学に勤しんできた。父に絶対に教師になるんだって啖呵切ったら勘当されて、がむしゃらに勉強してどうにか教師免許を取ったの」
―――それが私の夢だったから。
「大変だったけど、本当に嬉しかったし楽しかった…」
努力や思い出は儚い泡沫の如く千々に消えてゆく。
「…って何言ってるのかな、私。名前も知らない貴方に身の上話なんてどうかしてるわ。図々しくて本当にごめんなさい。今言ったことは忘れて下さい」
女性は目線を剥がれかけた床へと向けた。
「日のない所では陰は絶対にできない。陰がなければ人は休めない」
「え?」
「昔に読んだつまらない小説の台詞さ。いいじゃないか。神の思し召しなんて人間に分からないさ」
ふと頭に浮かんだ適当な言葉だが何故が伝えなければいけない気がしたのだ。
女性は一瞬、驚いたような感心したような顔をし目尻を下げて微笑した。
「素敵な言葉じゃない。つまらないなんて酷いわ。でも貴方のおかげよ」
―――本当にありがとう。
女性は噛み締めるように呟いた。
俯いた彼女から雫が零れ落ちる。
列車の座席の振動が幾分緩やかになってきた。乗客は忙しなく身支度を整えてる。程なくして駅に着くであろう。
同時に彼女との別れも意味する。
「次の駅で降りるよ」と囁くと線路と車輪の摩擦の音が轟く。
降車口から次々と乗客がホームへと向かっていく。それに倣って同様に俺も下車した。
刹那、女性は慌てて降車口から体を乗り出し俺に問うた。
「あの、お名前は?」
俺は口許を緩めて答えた。
「影、とでも言っておこうかな」
「また何処かで会えますか?」
彼女の言葉に足を止めることなく、容赦なく前に突き進んだ。
「キミが生きていればね…」
人混みに消えていった俺の背中をずっと彼女が見つめていたことは、俺は知るよしもなかった。
そして俺の言葉が彼女に伝わることもなかったのだった。





The end
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