短編小説

□浮遊或いは黙考
1ページ/1ページ


(ぼくのわがままがいつか星になりますように)










 僕という人格が、いつ、どこで、どのようにして、ふたたび彼のなかに芽生えたのかを僕自身も、誰も、知る由もない。

 気がついたらぼんやりと朧気にあたりが見えていた。擦りガラスをとおしたように世界は曖昧で、僕の意志は体にはひとつも伝わなかった。

 それが多分、僕に与えられたモラトリアムなんだろうなあと思いながら擦りガラスごしの綺麗でもない風景を眺めた。


 多分僕は、彼の視界を彼の目をとおして彼の感覚の端っこを借りて見ているのだろう。借景、と云っていいのかな。

 屯所だった。

 彼の働くその場所は同時に僕の家でもあった。彼は書類仕事の合間に一服しているらしく、煙を逃がすためにあけた障子の隙間から空が見えていた。

 部屋の隅のカラーボックスにコレクションしたDVDはどうなったんだろう。捨てられてしまったかな。


 僕がいなくなってからもういくらかの時間が過ぎているようだ。なんとなく、そう感じた。
 なぜいまさら僕が彼のなかに生まれ出でてしまったのか。彼のなかにがっちり捕らわれているところを見るに、妖刀のせいではなさそうだ。

 考えてもわからないことだけれどもいまの僕はどうやら視覚以外の感覚は一切持ち合わせていないようで。
 無音映画のなかにつき落とされたような中で僕に唯一できることといったら妄想か思考か、どちらかだ。

 それでなんで妄想を選ばなかったのか、そのあたり僕はやっぱり一度は成仏した魂なのだと思う。


(応答せよ応答せよ、十四郎、)


 彼に呼びかけてみる。反応はない。反応したとしても聴覚のない僕にはきっとわからないだろう。

(応答せよ)

 応えるように十四郎の手が上がったのを視覚が捉えた。
 でもそれが僕への合図ではないことがすぐわかった。彼の視界いっぱいに、懐かしい顔が映った。

(坂田氏)

 とてもとても意外だった。
 彼と坂田氏はひたすら仲が悪く、僕ともはじめ坂田氏はとても険悪だった。
 だけど僕を坂田氏は助けてくれた。

(坂田氏)

 呼んでも届かないと知って、名前を呼んだ。さかたし、さかたし。繰り返した。
 視覚しかなかった僕の感覚器官が不意に何か、別のものであふれた。それは一体聴覚触覚嗅覚なんなのか。胸がぎゅん、と締まる、とても緊張に似た感じがした。

(坂田氏)

 ねえ僕だよ。ぼくだよ。

 坂田氏はもちろん僕には、彼のなかにいる僕には気がつかない。擦りガラスごしのもやもやした坂田氏の顔が、彼に近づいていく。

(坂田氏、)

 また喧嘩をはじめるのだろうか。

(坂田氏、僕、成仏なんかしたくない)

 目前に迫った坂田氏の顔は怒っていない。笑ってもいない。真剣な顔だと思う。
 聞こえているのかもしれない、応えようとしてくれているのかもしれないと思うと僕の胸は一層ぎゅんぎゅんして、坂田氏坂田氏と呼び続ける。

(こっから出して)

 坂田氏が僕を、彼をとおして僕を見ているようだった。
 真摯な瞳がまっすぐに光って、坂田氏の唇がゆっくりと動いた。

 と
 う
 し
 ろ
 う

 それから坂田氏の顔はあまり近くに寄りすぎてはっきり見えなくなって、しかも彼が目を閉じてしまったのかあたりは真っ暗闇になってしまった。

(とうしろう)

 坂田氏は彼を呼んでいた。
 僕ではなく彼を見ていた。


 胸のあたりが変にぎゅんぎゅんした。
 僕はいま何を感じているんだろう。胸はなんでこんなふうにしてぎゅんぎゅんするんだろう。
 そんな必要はないのに。

(さかたし)

 彼の瞼があいて視界が戻ってきた。坂田氏の目に写り込んだ彼の顔が見えた。僕ではなく、彼の顔が、見えた。

(いやだよ、坂田氏。僕は)

 坂田氏の目のなかの彼が目をそらした。だから僕の視線もそちらへ移動して、繋がれた手と手を目の当たりにすることとなった。
 それは、僕の掌ではなく。

(……坂田、氏)

 急速に遠のいてゆく意識が視界が、胸の痛みを際だたせた。
 そうかこれは、痛みだ。

 彼の指が坂田氏の指と絡んで肌色と肌色の交わりが、僕の視界を最後に乱暴に乱した。



(そうかこれは、恋だ)


 僕はそうしてどこにも存在しない誰にも気づかれないはずだった思いに気づいて、どうすることもできずにそれらにさようならをするのだった。

 またたすけてほしかった。


 応答せよ。









(なんで泣いてるのとおしろう)
(どっかのオタクが、泣いてんだよ)


 応答せよ。


(あいしてほしかった)




戻る






[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ