短編小説
□あぶくの白
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痛いこと、が、好きなおんなのこなんているはずがないのに。
おんなのこは痛いことを経験しないと大人にもなれなくて、なったところで、愛される確証もないのに。
(クナイってこんなに手に重かったのね、当然ね、凶器が手に重くないはずがないものね)
猿飛あやめは両手で押し抱くように持ったクナイを握りなおすと、万事屋のちいさな寝室へと続く襖を静かに開けた。
こもった空気は温かく、聞こえる息づかいは安らかだ。
規則的に時計の針の動く音がする。ち、ち、と、まるで時限爆弾のようだと思って猿飛あやめは眉を寄せた。
(せっかく、静かな夜なのに)
一組の布団に折り重なるようにして眠る二人の人影が、もぞりと微かに動いた。
枕元には空になった酒瓶。
(ちゃんと薬は、効いたようね)
寝息と寝息が時折重なり時折離れて、ゆるやかにひとつになって猿飛あやめの耳に届いた。それは普段の彼女であれば思わず笑んでしまってもいいくらいに心地よくやわらかな響きであるのに、今の彼女にはひどく耳障りに聞こえた。
「なによ」
なによ、と細く呟いて猿飛あやめは二人が眠る布団へ近づいた。
黒と銀の髪が布団に散っている。
「男同士のくせに、なんなのよ」
布団にくるまった彼らを見て猿飛あやめは悲しくなった。
悲しくて悲しくてでも目をそらせずにいると、まるで彼らの温めあった体温が立ちのぼりぬるくぬるく彼女の頬を撫でたように感じて猿飛あやめははっと息をのんだ。
はたはたと布団へ落ちていく粒の光に気づいて息をのんだ。
(なんで私が泣いてるのよ)
はたはたはたはたと布団にあたりかるい音をたてて砕けていく涙は止まらなかった。
(決まってるじゃない)
(あいされたかった、のよ)
眠る二人の片割れ、銀髪の男を見て、猿飛あやめは喉を震わせた。
愛しい愛しいと思うのに、猿飛あやめの気持ちは流されて流されてこんな最果ての結末にまで堕ちてしまった。
「ぎんさん…」
ひくひくと引きつる唇で名前を呼んでみても猿飛あやめの胸中に広がるのは錆びた甘さだけで、はたはたと落ちる涙がもう何故流れているのだか判然としなかった。
(好きなの好きなの好きなの)
(愛して愛して愛して)
落ちていく涙にあわせて猿飛あやめはそう願う。
(私は痛いのも辛いのもなんだって我慢できるの。銀さんが私に痛くしたり辛くしたりするなら嬉しいの)
(ねえ、なのに)
(なのに銀さんは私じゃなくて、)
(ねえなんでこんなふうに私は)
胸に抱いたクナイの先を、銀髪の男へあわせる。ぴたりと揺らぐことなく布団に隠れた心の臓の真上にくないの切っ先をあてがって、猿飛あやめは嗚咽をこらえずに泣いた。
(銀さん銀さん銀さん)
(私よ、私なのよ、会いに来たのよ)
猿飛あやめはクナイを迷いなく振り下ろした。
(銀さん、私なのよ)
(愛してるのだからさようならを言わせて。ねえ私は銀さんが与えてくれるものなら痛みでも悲しみでも全部嬉しいの、嬉しいから、だから銀さん、)
(でもやっぱり悲しいのは悲しいから、だから銀さん、銀さん、これからずっと続く悲しさじゃなくて、いま、今、一番の悲しみを私に頂戴。それで私はとても嬉しい。銀さ、)
「…え」
男の胸に突き刺さるはずだったクナイが、鋭い金属音をたてて弾かれた。
銀髪の隣の黒髪が、いつの間にか刀を手にしていた。
「なん、」
「…悪ィけど、」
ぎらりと光る鉄色の視線を受け止めきれずに、彼女は身体を引いた。引いた瞬間、負けたとわかった。わかっても納得はできずに、クナイを構える。
「殺させられねえ」
闇夜に浮かぶ、男にしては白く、整っているからこそ空恐ろしい貌に剣呑な目をして猿飛あやめを見た。
「なんであんた、眠ってないのよ…!」
理不尽だと思った。こんなにして、こんなにして殺しに来たのに。
王子さまを殺しに来た人魚姫が、隣国の王女さまに殺されてしまうなんてそんな、滑稽な話。
「悪ィが薬には、ちっと耐性がある」
なんなのよ!、と悲劇のヒロインだったはずの猿飛あやめは叫ぶ。
「あんたに何がわかるっていうの、幸せなあなたが!なんで私の幸せの邪魔をする権利があるっていうのよ退きなさいよ!男のくせに気味が悪い!あんたたちは幸せになんか、なれっこないのに…!」
一言叫ぶごとに声は割れて、猿飛あやめはその場にうずくまった。
美しいと、言われてきた。強いと、言われてきた。それでも所詮は忍なのだと、言われてきた。
「好きなだけ、なのに」
クナイを落として猿飛あやめは泣いた。
「どうしてそれだけ、それだけも許してくれないの」
黒髪の男は刀を下ろして、数度何か言おうとするような気配を見せたが、ついには何も言わず、また臥して目を閉じた。
恋がぶくぶく泡になって消えてしまった、さみしい、ホワイトデーの深夜。
了
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