リクエスト小説
□追憶の最愛
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世界中の人間を敵と味方のふたつに分けられるとして、彼はいったいどちらでいてくれるだろう。
(どちらでもねえさ)
今日も斬った刀が言う。
(あの日々は終わったのだから)
追憶の最愛
夕方の月は細く薄く、紫の空に霞んでいる。
刀の切っ先から飛んだ血の飛沫が、横たわる死骸を汚した。肉塊と化した男の傷口からあふれる濃い血の臭気は案外あっさりと河原の風にとけていく。
それは昔から嗅ぎなれた臭いで、おどろくほど肌に馴染む感触をしていた。もしかしたら自分という存在はこの液体と同化していて、次に吹き来る風に流されてしまうのではないかという不安と期待を、刀と一緒に鞘に納めた。
(こんなことでいちいち、動揺するな)
自分にそう言って、斬った男を捨て置いたままその場を後にした。
かつて仲間と呼んだ男の肉はどんな鉄より硬く、右手に残る刀の重みがじわじわと痺れた。
(なんで今日にかぎってこんなに、思い出す)
仲間をはじめて斬ったのはもうずっと昔のことだ。
それからずっと繰り返す裏切りに人斬りに今さら感化されることなど、あるはずがない。
そう苛立たしく土手を辿る足元に、なにか硬い感触を感じて下を見た。
落ちていたのは薄紙に包まれた飴玉だった。
(ああ、)
納得をしてから淡い絶望が立ちのぼる。視線を正面に戻すと、当然のように彼がいた。坂田銀時が口のなかでころがした飴は、歯とあたってからりと音をたてていた。
「よ」
かるい挨拶に返す言葉もない。
「…よう」
おうむ返しに答えると、銀時は、地面の飴玉を指差す。
「土方が踏んでるそれ、オレの」
「…そうか」
濃いあまい匂いは鼻腔にひったりと寄り添い、舌の付け根から酸い味がした。
「オレは昔っから、甘いもんは嫌いなんだ」
ミルク味の飴玉を爪先でかるく蹴って、その勢いのまま歩き出す。早足で銀時の横をすり抜けると、ひっそりと銀時が呟いた。
「おまえが生きてるってことは、あいつは死んじゃったんだな」
それは違う、と土方は思う。
立ち止まって、振り向かないまま、土方は言う。
「オレが、殺したんだ」
あの時と同じように。
そうだあの時も、見咎めたのは銀時ただ一人だった。
「……そうだな」
銀時は静かに言う。
あの時と同じように、土方を責めることもなかった。
振り返りたい気持ちを制して土方は歩き出した。これもあの時と同じだ。裏切りのあの日から土方は、振り向かない。それが前進でも後退でも、どちらにせよあの日からは遠ざかるばかりだ。
(逃げられないことくらい、知ってる)
土手から舗装された道に出ると、屯所に電話をかけた。
ワンコールで電話を取った新人隊士に、河原の死体処理に班を向かわせるように指示をする。
『副長は、ご無事なんですか』
「当然だ。無事じゃなけりゃ電話なんかしねえ」
一体誰が、と憤る隊士を、土方は鼻で笑った。
「攘夷派不逞浪士、に、決まってんだろ」
携帯電話を握る右手が痺れていた。
「オレは真選組の、副長なんだからよ」
土方の去ったのち、銀時は静かに静かに土手を辿った。土方の足跡を逆流すると、血の臭いに行き着く。
まだほのあたたかい死体から流れ出る血は、生きているように、地面の上を走る。
「ごめんな」
銀時は口にいれた飴玉を、がり、とひと思いに噛み砕いた。
途端増すはなやかな香りが風に流れる。
「オレが殺したようなもんだ」
死体の懐から覗いた薄紙も血に浸っている。牛の絵柄が印刷されたそれと同じ包みを袂から取り出して、ほの甘い飴を唇につけた。
「オレは土方を斬れなかった」
銀時は死体に手を触れかけて、遠くから聞こえるサイレンの音に、宙で手を止めた。
苦悶の表情を浮かべる男の顔を見て、一瞬で死ねたわけではないことを悟る。見開かれた目に指を添えて、せめてまぶたを閉じさせた。
まだ穏やかとは言い難い死に顔を数秒眺めてから、銀時はまた歩き出した。
――あの日彼が振り向かなかった理由にきっと自分は気がついている。
(あの日も今日も、オレは土方を斬れないんだ)