雨露
□一章 第一話
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真選組を統括する警察庁の長にあたる松平から夜半に呼び出されたのは、局長と副長たる自身のみ。
事が些事であるのかどうか、土方は肌で分かった。おそらくは隣で神妙な面持ちで座す近藤もそうなのだろう。
わざわざ呼び出された場所は警察庁でもなく、また屯所でもない、派手ではないが高級な旅籠。一見して幕僚の利用する施設であると判るそこの最奥の一室に通された二人は、松平が現れるのを待っていた。
部屋の造りは重厚で、夜の帳も手伝ってどこまでも静かで、室内灯で充分に明るいが陰のある雰囲気は拭いきれない。
おそらく以前から口外できないような用事のために使われていたのだろう。
完全防音のため何重にも区切られた入り口の襖ががらりがらりと開く音が続き、最後の音とともに松平その人が現れた。
「待たせたな」
松平が片腕に抱えているものを見て、土方は胸から息が出ていくのを感じる。
それは安堵の溜め息などではなく、絶望の嘆息。
松平の持つそれは
首桶、だった。
松平の吐く紫煙がまるで香のようだ。
首桶を抱くようにしてうなだれた近藤の隣で、土方はそんなことを思った。脳の左側は冷静にいまこの状況を判断しているのに、右側は意味のないことばかりを取り留めもなく考えているような感覚。
こんなふうに感じるのは、斬り合いだとかセックスだとか、そんな時。命がそこにぶら下がっているのが確かに見える時だ。
命のやり取りが重くなるほどに左脳と右脳は乖離して、表に出てくるのは理性だけになる。
だから今も、隊士の首の入った桶を見た土方は顔色を変えずに松平に問うた。
「現場は」
「不明だ。首桶だけを警視庁に置いてきやがったからな。……で、そいつは隊士に違ェねえか」
土方がちらりと見やると、同時にこちらをみていた近藤と目が合う。
お互いが、否という答えを望んでいるのに。
まだ入隊したての若い隊士だった。近藤も土方も直接言葉を交わしたことは無いに等しい。
すべてはこれから始まるはずだったのに、彼はもう終わってしまった。
殉職として扱われる彼の死を、一体誰が受け入れられるというのか。
「…間違いねえ」
近藤に言わせてしまったことを土方は後悔する。こんな悲しい役目は本来自分がすべきなのだ。
「…とっつぁん、下手人は見つかったのか」
「急くんじゃねえ。…こいつが首桶んなかに入ってた」
松平が懐を探って渡して来たのは、血の染み跡も生々しい懐紙。
「手紙だ」
土方が無言で受け取りその紙を開くと、ふわりと甘苦い匂いがした。
(煙草…)
懐紙の流麗な筆致を辿ると、さらに煙草の匂いがきつくなった気がした。
『おもしろきこともなき世をおもしろく』
懐紙にはただそれだけ、上の句だけがしたためられていた。
「歌…?」
「…っ。つまんねえからやりましたっていうのか」
近藤は再び首桶を抱いた。手の甲に浮き上がった筋が、どれほど力を込めているかを物語っている。
すまねえ、とか細く言った近藤を見つめながら、土方は背にぎろぎろとした寒気を感じた。
(おもしろきこともなき世を)
「…こいつ、まだ斬る気じゃねえか」
呟いた土方の声は、静まり返った室内で重く低く渦巻いた。
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