短編小説

□声が足りない
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 薄い灰色に覆われた空は晴れよりも眩しい。うっすらとした雲を通して鈍く白い光が一面に溢れていて、教室の窓からそれを見ていた銀時はたまらず目を閉じた。


 午後一番の授業は大好きな先生による大嫌いな数学。

 高校も三年となれば、文系理系で自分で選択する授業が増える。銀時は理数科目よりはずっと文系科目のほうが成績が良かったから、といってもたかが知れてはいたけれども、選択科目は古文や漢文や日本史やらで埋まっていた。しかし最後のひとつの選択授業の枠が、取らなければいけない授業も無く余ってしまった。
 大学と違い、取りたくなければ帰って良いというものでもないので、じゃあ適当に文系科目でも取ろうかと選択科目の一覧プリントを見て考えていたところに、基礎数学、という文字が見えたのだ。

 私立文系を目指していた銀時にとって数学など、基礎であろうが何であろうが無用の長物だ。
 なのに何故その授業を選択したか。
 担任に聞かれたときに自分でも首を捻った。何でだろう。

 息抜きっす、と答えた気がする。
 文系のが成績良いけど、ほんとは数学わりと好きなんで、と。
 担任はそんなそぶりを見せたことのない銀時を訝しみ、下手に苦手な教科を取ると評定が下がるからよろしくないとのたまったが、もともと評定など底辺に近い。単位さえ貰えれば文句はなかった。
 一般受験なんで、と言うと担任もしぶしぶ納得したようだった。

 担任をのらりくらりと説得してから、そこまでしてキソスウガクなんて取る必要があったのか、と銀時は自問した。
 でも良い睡眠時間にはなるかもしれないと思って、深くは考えずに木曜の五限目にあるその授業を待った。

 はじめての授業の日に、銀時は、自分がこの科目に執着していた理由を知った。と共に、二年前に感じた淡い想いが胸を満たした。

 土方十四郎。

 銀時が一年生の時、数学Aを担当していたのもこの教師だった。
 入学したてで、どうやって女の子と遊ぶかしかていなかった銀時は当然土方の授業もサボりにサボり、出ても寝てばかり、大体起きていても言っていることが理解できないのだからと開き直っていた。
 定期テストの結果も惨憺たる物で、土方との補講は恒例行事となった。

 言っていることはやはりさっぱり分からなかったが、補講は嫌いではなかった。
 不特定多数に向けられていた土方の声が、視線が、すべて銀時のためにある。
 補講が終わるとさっさと数学科の部屋に帰って行く土方に、またね、と言うと、もう補講になるなよと返される困ったような声音が好きだった。

 高校一年の日常のなかに溶け込んだ土方十四郎という男との時間は、居心地の良いものだった。
 しかしそんなぼんやりした気持ちは女生徒との拙いセックスとかそういう猥雑な物たちに紛れて、二年生に進級して土方の授業がなくなるとあっという間に忘れてしまった。

 三年生になって基礎数学を取ろうと思ったのは深層心理のなかにわだかまっていた土方の存在なのだろうが、正直銀時には自分がそこまで土方に固執する意味がよく分からなかった。

 初日の授業の最後に土方が銀時のほうを見て、困ったように笑うまで。

 ああ好きだからか、とすんなり腑に落ちた気持ちになんの抵抗もなかった。
 すくなくとも、未発達の体で必死に銀時の雄を受け入れようと泣く少女に抱く黒々とした欲望よりは、ずっと素直にそれを好意と呼べた。







「これがド・モルガンの法則。名前なんて覚えなくて良いから法則自体を忘れるなよ。数学Aの範囲は三年になると忘れてる奴多いから」

 瞼を透かして眩しい光が目をさして、聞こえる土方の声はまろやかに耳を撫でた。

(ド・モルガン)

 聞いたことのあるようなないような、その音楽的な響きは土方が言うと一層の深みを増す。

 音楽教師になればよかったのに、と沈みかけた思考が思う。
 そうすれば銀時はもっと土方の授業を興味を持って受けられただろうし、ピアノを弾く土方などなかなか良い絵面だ。
 しかしそれでは補講がないか、と考えて、意識は完全に闇に落ちた。


 ごめん先生今日も寝ます。


 銀時の心の声が聞こえたわけもあるまいに、土方は伏せた姿勢の銀時に、ちらりと視線を走らせた。



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