過去拍手小説

□まだはやいタソガレ
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 掌に溢れては零れていく川の水を殆ど水面に口付けるようにして飲む姿がまだそこらへんを漂っている。あれは夏の日。まだあんたは華奢と、いって差し支えないような体つきだった。そのときから多分、オレはあんたを突き落としたい衝動に駆られるようになった。

 どこからでも構わない。どこからでも落ちて欲しい。落ちて来て欲しい。先まわって受け止めるふりをしてやっぱり落とすかどうかはその時決めよう。
 オレはあんたの恩人になりたいわけでも敵役になりたいわけでもないんだから。ただオレはあんたというあんたにすこしだけ、他よりほんのすこしだけ、興味を持ったような気がしているだけなんだから。

 川の水を飲む姿がなんでこんなに網膜だか脳裏だか記憶だかに焼き付いているのかっていうとそれがオレがあんたをあんたとして認識したはじめての瞬間だったからだ。道場に来たあんたを道場の外で見るのもたった一人きりでいるのを見るのもオレははじめてだった。

 その流れはいまではもうかなり田舎のほうへ出向かなければそうそうお目にかかることは出来ないだろうという、清流。底を見通せるのは当然のこと、なかに入れば透明が過ぎて川に入っているのかいないのか現実味がないというくらいの。
 その水を、旨そうに喉を鳴らすでもなく、喩えが見つからないけれども一番感じが近いのは、静かに口をゆすぐという風にして飲んでいた。勿論ゆすいじゃいないけど。
 対岸に生えた木の陰からそれを見ていたオレはふとその川にあんたを引き落としてやりたいと思ったんだ。そして沈めてやりたいと。それから助けてやりたいと。人工呼吸。まるで人魚姫みたいじゃないかと思っていた当時は。御伽噺なんてのに興味は無かったから可愛い勘違いをしていたのだ。好いた男を海へ引きずり込む人魚なんてちょっとした怪談だ。でも本当のところ親しくしたい奴がたまたま嵐にみまわれるなんて有り得ない。
つまり直接的にしろ間接的にしろ親しくしたい優しくしたい欲しいと思う人魚の気持ちっていうのが大惨事を引き起こしたのだと。それで助けてみたら手柄を他の女に横取りされて。ざまあみろ、とオレなんかは思っちまうね。

 ともかくそんな風にして水を飲んでいたあんたは唇が水面に触れたまま、なんか用か、とはじめてオレにオレだけに云った。唇の動きに合わせて波紋が円を描いてオレのほうへ迫って来て、そのときオレはガキだったから驚きを隠せず思わず、死ね土方と応えた。思わずにしてはガキにしては出来た返答だ。
 それに対してあんたは水面に唇を付けたまま顔も上げずに、いつかな、と云った。ガキにしてはやはり出来た返答であると思う。

 いつか死ぬ落としたい土方という存在。貶めたいとは違う、落としたい。殺したいとは違う、死ぬ存在。それからあんたはまたすこし水を飲んで口を拭って、対岸にいるオレを見たのか見ていないのかどっち着かずの視線で見てから踵を返して去っていった。
 夏の日だった。昼間のこと。

 オレは対岸の木の陰からじっと目を凝らして川面を見ていた。映っていたあんたの水鏡はとうに割れて流れていた。つまりあんたもそういう存在だ。
 いつの間にか日が落ちかけて、落ちろ落ちろと願っていると、黒い影が川へ近づいた。半分の太陽を背にした逆光のその黒は、唇を水面に付けるようにして水を舐めたかと思うととぷんと川へ落ちた。とぷんなんて音もしなかった。
 オレはやはり対岸にいたままだった。
 やがて黒は落ちたときと同じくらい静かに川から上がって、這い上がるように。すこし脚を引きずって立ち上がると去っていった。落ちかけの太陽が水面に乱反射して水は清流のなかに一筋二筋赤い流れを含んでいた。
 そのときオレははじめて対岸の木陰から出て川へと近づいて、そう深くも広くもない川に手を差し込んだ。

 あの頃のあんたは華奢というより病的に細いかそけな印象を与えるひとだった。血が似合うんではなく死が似合う歪んだひとだった。いつか死ぬ当たり前のあんただった。

 人魚姫になり損なったと、このあのその遠い夏を思い出すたびに、オレはちょっと舌を打つのだった。
 手柄の横取りをさせる気はいまも昔も毛頭ない。







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