数奇番外編

□優先事項2
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 クモの頭であるクロロが一度そうと決めたなら、その糸に捕らわれ逃れることの出来る獲物などこの世にいやしない。彼女とて、そんな場面はこれまで幾度となく見てきた。
 錠すらない首輪には、ぐるりと囲むようにして不可解な模様が描かれている。それが何であるか、携帯電話すら取り上げられてしまった彼女には調べようもないことだった。
 じゃらりとした鎖がベッドの脚に括られ、彼女の行動範囲は半径二メートルに限定された。
「一時間だけ出てくる。外すなよ?」
「は、い……」
 にっこりと笑うクロロに背筋が伸び、ゴクンと飲み込んだ生唾が、よりいっそう己の恐怖を際立たせた。
 扉が閉まり、このホームからクロロの気配がなくなる感覚。
 しかし、窓辺にすら届くことのない鎖では、正規の外出か、それとも偽りの絶なのか彼女に判別などつくはずもない。
 せめてこの現状を、この狂気じみたおぞましい現状を誰かに知らせ、打開策を練る必要があった。
 これ見よがしに部屋の隅へと置かれた自身の携帯電話を視界に、彼女は首筋へと触れる。たった一瞬外すだけだ。外し、端的に知らせ、そして履歴を消し、またこの位置に戻る。たった五分でいい。五分でいいのだ。
 精神を統一し、彼女は手探りで首輪の留め具に触れる。解放しようと指先に込めた力は、しかしそれ以上進むことはなかった。思い出したのだ、この模様の意味を。クロロが施錠を行わずに外出した本当の理由を。
「っ……は、ぁ」
 汗が吹き出し、彼女は呼吸が浅くなるのを感じた。クロロの本気を目の当たりにし、恐怖で暗転した視界は当分戻りそうにはない。執着心とはつまり、こういうことなのだ。どこまでも重く、終わりなどありはしない。
 愛してる。クロロは、ただ甘く舌に乗せ、囁いているわけではなかった。

 *

「あ、お、おかえり……なさ、い……」
「ああ、ただいま」
 それから一時間。携帯電話もない彼女には知ることも叶わないが、クロロはきっかり一時間経ってから帰ってきた。
 合わせた目線がすぐに逸れ、彼女の首元を見るや否や彼は滾るように笑う。その顔にゾッとし、彼女は床を這って後退した。
 クロロはわざと携帯電話を彼女の見える位置に置いて外出したのだ。己への裏切りを、彼女の従順さを、この目で確かめ今後の岐路を決める為に。
「いい子だ」
 過去何度も何度も言われ慣れてきた言葉。これほどこわいと思ったことなどなかった。
「腹減っただろ? 買ってきたんだ。本当はお前の飯が食いたいんだが、まぁ仕方ない」
「あ、あの……」
「なんだ」
 彼女の前に広げ、己もまた缶ビールを手に腰を下ろす。いらないなどという選択肢はなく、まるでゴムや砂を噛んでいるようだった。
「ト、トイレって……」
「ああ、それくらいオレが抱いて連れていってやる。目隠しをしてな」
「そ、んな、こと……」
「ああ、それともなんだ。おむつでも履くか? おまるでもいいぞ、好きに選べよ、何だって用意してやる」
「っ……」
 喉に、入らなかった。
 必死に飲み込もうとしたのに、どうしてもつかえた。
 胃からの込み上げに抗えず、彼女は全てを嘔吐した。
「ッ、う……ぁ……」
「大丈夫か? 顔色が悪いな」
「ク、ロロ……ごめ、なさ………」
「気にするな。お前の嘔吐なんて見慣れてる」
「ご、め……」
「キスだって出来るぞ。オレは、お前の全てが愛おしいからな」
 ゆっくりと唇を舐められ、抉じ開けられた歯列の先には、怯え、最奥に引っ込んだままの彼女の舌先。後頭部を押さえ付け無理矢理掬い上げれば、嗚咽を隠しもしない彼女に、クロロは本心を覗かせた。
「いっそこのまま二人で死ぬか?」
 頷いたら笑うから、彼女はクロロを手放せなかった。
 これほどまでに愛してくれる人など、来世ですらいやしない。



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