夢小説

□未完成なスイートルーム
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眠っている△△にキスを落として体を起こした。
もう行かなければバンコク行きの飛行機に間に合わない。
ベッドサイドに置いていた眼鏡をかけ、おざなりに椅子にかけていたスーツに手を伸ばす。襟の辺りに△△のファンデーションが付いているのが、行かないでと訴えているようで心苦しかった。後ろめたさはあったが、濡らしたハンカチで叩いて応急処置をした。
鏡の前でジャケットを羽織り、「私」である自分を見つめる。
髪をアップにまとめて眼鏡をかけ、タイトなスーツを身に纏って上品な言葉で上司や関係者と会話をする私を、ロアナプラの連中の誰が私と思うだろうか。それだけ「私」と「あたし」のギャップを大きく作っている。しかし「あたし」の私も確かに自分自身であり、私の中で「あたし」は半分を占めていた。
それなのに可愛らしい姫君は「あたし」を知らないままに私を愛してくれている。
致し方ないことではあるが、それは実質騙していることと同義であり、こうした逢瀬の別れ際はいつも申し訳なさが心を覆う。
私は最後にもう一度安らかな寝顔を見つめ、その頬に口付けるとスーツケースを手にし、名残惜しさを振り払って背を向けた。
廊下へと続くドアを開けようとノブに手を掛けたその時、

「エダ」

寝起き特有のこもった声が届いた。
振り返ると△△が目を擦りながら身を起こしたところだった。

「起こしちゃったわね。ごめんなさい」

△△が下着姿に裸足のままベッドから降りてこちらへぱたぱたと寄ってくるのを、私も歩を進めることで早めた。
距離が5mになり、1mになり、30cmになり、0になった。
身長差を埋めるように首にしがみ付く△△を引き寄せ、唇に吸い付く。
深いキスの後、唇を離して開口一番に△△は言った。

「どうして黙って行くのよ」

年下の恋人の文句には、非難の中にも甘ったるさが含まれていて、私はそれだけでほだされてしまう。

「可愛いお姫様の眠りを妨げちゃいけないと思って」

「そんなの黙って行かれた方が嫌に決まってるじゃない」

ごめんなさいと素直に非を認めると△△は「もう」と頬を膨らませ、ちゅ、と音の出るような触れるだけのキスを唇にくれた。

「次はいつ会える?」

「1ヶ月後か、3ヶ月後か、仕事の進捗次第よ」

事によっては半年かもしれなかった。そんなあやふやな答えしかできないのが歯痒い。けれど、かと言って無責任に適当なことは言えなかった。
△△は私の仕事を総合商社の海外営業だと思っている。CIAの人間は家族にさえも自分の職業を明かすことは許されない。私が遠い熱帯の国でどんな大義名分の下に、どんな矜持を持って、どんな仕事をしているかを△△に語って聞かせられるわけはなかった。私が日々体の一部のように銃を扱い、鉛の弾丸でならず者の連中と安い命(ローライフ)をやり取りしていることなんてこの子は夢にも思っていないだろう。
何も知らない△△は眉をハの字にして笑い、俯いた。

「そっか、そうだったね。ごめん」

そうやって聞き分けが良すぎるのも私を苦しめた。
身長差のせいでよく見えるつむじを見つめながら思う。
いっそ泣いて縋ってくれたらいいのに。ろくに会えず、連絡することもままならない私を責めて詰って憎んでくれたら、この罪悪感も少しは軽くなるかもしれないのに。

「時間が取れるようにできるだけ頑張るから。また連絡するわね」

下を向いていた顔を上げさせ、安心させるためににこりと笑ってみせる。

「ん、待ってる」

それに応えて△△も笑顔を見せてくれた。
それでいいのだ。△△は何も知らない方がいい。万一秘密を知られてしまって、変に悩みの種を増やさせ、危険に身を晒させてしまうよりは。こうして陽の当たる世界で健やかに生きて、そして心の隅ででも私の帰りを待っていてくれさえすれば、それでいい。

「体に気をつけて頑張ってね」

「ええ、わかったわ。△△もね」

「気をつけて」。これほど私を打つ言葉はないだろう。
もし私があの悪徳の街で銃弾に倒れて地に伏しても、その死の真相が△△に告げられることは決してない。表向き交通事故か何かとして処理され、下手したら△△の元に届くのはその辺の店で適当に用意された装身具一つだけになるかもしれない。私がCIAのエージェントとして生きた証は、本部正面玄関の右側の壁に埋め込まれる星一つしかなくなり、△△は偽物の遺品に私を見るしかなくなるのだから。
私はかけられた言葉を噛み締め、△△の片方ずり落ちていたキャミソールの肩紐を直してやり、部屋を出た。

こうしていつも、連絡するだなどと何の拘束力もない言葉を与え、ホテルの一室に△△を置き去りにして地球の裏側へと舞い戻る。
次に△△に電話をかけた時はもしかしたら繋がらなくなっているかもしれないと、そんな不安を抱えながら。いつ終わってしまってもおかしくないこの関係がまだ続くことを、また数ヶ月後にはこの部屋を訪れることができることを祈りながら。
私が部屋を出るのを待っていたかのように携帯が着信を告げ、それに応答する。

「はい。これから発ちます。その計画の重要性は重々承知しておりますわ。向こうに着いたらすぐに手配を」

上司によって今後の任務遂行の手段の確認が行われる。そして最後に常套句として用いられる幸運を祈るお言葉を拝聴し、通話ボタンを切った。不必要に期待の言葉はかけず、淡々と。それが彼なりの信頼の証だと私は認識していた。
カツカツと鳴るヒールの音が仕事モードへと私を引き上げる。ホテルのエントランスを出ると頭上で一機の航空機が青空を切っていく。
ふと、昨日△△に贈られたピアスをつけた耳朶に手をやった。仕事中でも付けていられるように配慮して選ばれたというそれはシンプルなボール型で、暴力教会のシスターとして付けても違和感のない物だったのは偶然の産物とはいえ有難かった。
それほど彼女を愛していても仕事を捨てられないこの性を、空港へと向かうタクシーの中で嗤った。


未完成なスイートルーム


***
‘13/01/06

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