夢小説
□エプロンを外さないで
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彼女は地方都市の外れで平凡に暮らす私の前に、前触れもなくふらりと姿を現した。
洗濯物を干そうと洗濯かごを抱えて庭に出た私に、門扉のこちら側から「ハァイ、△△」と声を掛けてきたのだ。
数年ぶりだというのにまるで会ったのは昨日ぶりのような声。
化粧もせずにエプロン姿でサンダルをつっかけていた私は彼女の目にどう映ったのだろう。
そんな私と、VネックのロングTシャツにパンツ姿の彼女との光景はご近所付き合いの毎日の挨拶、そんな風にも見えたはずだ。
だが私は彼女の姿を認めると、間抜けにも口をぽかんと開けたまま彼女を見つめるしかできなかった。
「急にどうしたの」
紅茶の入ったティーカップをヘックスの前に置きながら私は問う。
「△△の顔を見たくなったのよぉ」
本心なのかどうか、相変わらずヘックスの微笑みからは読みとれない。
「それは光栄ね」
どちらにせよ会えたことは純粋に嬉しかったが、当たり障りない返しに留める。
そんな私に彼女は言った。
「今、幸せ?」
軍を辞めて家庭に入った私とCIAで戦い続けることを選んだ彼女。会うのは私が除隊して寮から出た日以来だった。
生粋の愛国者で能力も高く、どんな訓練もこなす彼女が凡庸な私をどうして好いてくれていたのか未だによくわからない。
当時の私にわかっていたことは、彼女の戦士としてのパートナーにも、人生を共にする生涯のパートナーにも自分はなりきれないということだった。
彼女との力量の差は努力で埋めるには大きすぎて、それは彼女の伴侶になるという希望すらもしおれさせていた。
それに、決定的だったのは価値観の相違だった。
愛する人とは二人でつつましく暮らしたいという私の考えに対して、ヘックスは愛し合っているなら何ヶ月も会えなくても平気で、主義という名の仕事のためなら世界中どこへでも飛んでいくという考えだった。
およそ軍人に似つかわしくない私の理想をヘックスは否定こそしなかったけれど、私はそれぞれが描く未来に乖離を感じずにはいられなかった。
喧嘩別れではないが、私が軍を辞めたきり会っていなかった私たちだった。
「そうね。幸せよ」
「私といた時よりも?」
「ええ」
私はにっこり笑み、自分用の紅茶に入れるレモンの用意をするため背を向けた。
「そうは見えないけどねぇ」
不躾なことをはっきりと言われ、振り向くと彼女はうっすらと穏やかな笑みを浮かべて真っ直ぐにこちらを見ていた。
「…どうしてそう思うの?」
「まばたきが多かった。変わらないわねぇあなた」
ヘックスは泰然とカップに口を付け、紅茶を啜った。
そうだ。私が嘘を吐く時の癖を指摘してきたのは後にも先にもヘックスだけだった。
夫にすら言われたことはないのに、私のことをよくわかっている彼女に思わず苦笑する。
「そうだとしたら?」
「今でも好きよぉ。私、△△のこと」
ヘックスは質問には答えずに唐突に告げた。
動揺を隠すために私は再び背を向ける。
「こんなつまんない生活捨てて、私と一緒に来ない?」
「それを言いに来たの?」
どきりとした内心を隠して私は問うた。
「そうだとしたら?」
私の言葉をそっくりそのまま返すヘックスに振り返ると、さっきと変わらない表情でこちらを見ている。
「そんなこと、微塵も思ってない癖に」
私はレモンを切ろうとしていた果物ナイフを置いて、震えそうな声を抑えて吐き出した。
「どうしてそう思うのぉ?」
黙ったまま答えられずにいる私に彼女は言った。
「自分を偽って生きる必要なんてないじゃない」
核心に迫ろうとする彼女の言葉に私は思わず顔を上げた。
自分のこれまでの人生を否定された気がしたからだ。
「違うわ。あなたには退屈に思えるかもしれないけど、私はこんな生活がしたかったのよ」
「そう思いたいだけでしょう」
「そんなことない。それに、あなたが戦うことを選んだんじゃない。だから私は、」
「あなたが私から逃げたんでしょう」
「私は…っ、っ!」
いつもの声のトーンで、しかし有無を言わせずに言葉を重ねてきたヘックスに声を荒げかけたが、瞬間的に襲った痛みに言葉が途切れた。
調理台に手を突いた際にナイフに触れてしまったようで、指先からは血が滲んでいた。
「どうかしたのぉ?」
「指を…」
こちらを窺うヘックスに傷の具合を見ながら答える。
「見せて」
「浅いから平気」
椅子から立ち上がってこちらへ寄ってくる彼女を制した。
しかしヘックスは私の手を取り、傷口を確かめる。
「舐めておけば治るわ」
懐かしいその指先の感触に心がざわめき、それをかき消すかのように私は言った。
するとヘックスはさも当たり前のように私の指を口に含んだ。
「…っ」
熱い舌が指先をくすぐった。
「ヘックス、」
名を呼ぶと彼女は私に視線を合わせた。
単なる民間療法にしてもそれは不自然な時間の長さだった。
「な、に、するの」
私の声も意に介さず、こちらをじっと見つめながら指を舐める。
それは徐々に第一関節へと移り、第二関節に移動した時にはそこにキスを落とされた。
「ちょっ、」
声を漏らした瞬間、ぐっと腰を引き寄せられ、気付いた時には彼女の腕の中に包み込まれていた。
「っ、ヘックス、」
問いかけにも答えず彼女は黙って腕の力を強くする。
彼女に抱き竦められ、私は身動きが取れない。
指先は酷く熱を帯びていた。
まるで彼女の舌に溶かされてしまったのだろうかと思うくらいに。
顎を掴まれて上を向かされる。
キスされる。
そう思った私は咄嗟に顔を背けた。
「やめて。今の生活を壊すようなことしたくない」
「壊せばいいじゃない」
吐息がかかりそうな距離でヘックスはそう言い放つと、無理矢理唇を奪った。
「…っ、んっ……ぅ」
頭の後ろを押さえられていて、逃げることができない。
角度を変えては何度も口付けられる。
時折ヘックスが酸素を求めて唇を少しだけ離すその時にだけ私も息ができた。
薄く目を開けてみると意志の強い瞳が私を見据えていて、もう目を逸らせなくなった。
「あなたには私の隣がお似合いよ」
長い口付けの合間に彼女は言った。
「でも、私、」
その先を言おうとして言えなかった。
今手にしているものを全て捨てて彼女とどうにかなってしまうのもありかもしれない、なんて最低な考えが頭を掠めたからだ。
このまま流されてしまおうか、そんな考えが芽生えた私の心をわかっているのか、ヘックスは私のブラウスの中へと手を滑り込ませ、ブラのホックを片手で容易く外した。
私たちはもつれるように隣の寝室へと移り、ベッドに倒れ込んだ。
「子供ができたの」
昔のように腕枕をしてくれているヘックスに私は言った。
一瞬彼女が固まった気がした。
「ごめんなさい」
ヘックスは天井を見つめたまま何も言わない。
堰を切ったように襲ってきた後悔の念に私は謝罪の言葉を繰り返した。
「ごめんなさい」
ごめんなさい。
繰り返すその言葉は夫に宛てたものか、お腹の中の赤ん坊か、それともヘックスにか。
「そんな気がしてたわぁ」
お腹が空いた、とでも言うような声色でヘックスは言った。
「△△、子供欲しがってたしねぇ」
こちらを向いたヘックスは微笑んでいた。
それだけは私じゃ与えてあげられないものねぇ、と間延びした声で彼女はケラケラと笑った。
「また来るわぁ」
見送りの玄関先でヘックスはいつもの飄々とした顔で言った。
返しに迷った私を見て彼女は笑う。
「安心しなさい。友達としてよぉ」
思わずほっとして笑ってしまい、あからさまにしすぎたと内心で自分を叱る。
時間にして数秒、私たちは静かに見つめ合った。
その時に何もかも彼女からだったとはっとして、最後にハグをしようとした私にヘックスは気付いていたのだろうか。
それじゃ、と踵を返した彼女に結局それは叶わず、扉は閉められた。
私はこの小さな家で平穏に暮らし、彼女は広い世界を駆け巡る。
そして彼女はきっともうここへは来ない。
そう思った時ぽろりと涙が零れて、本当は彼女について行きたかった自分に気付いた。
今もお互い想い合っている。
別れ際、彼女がなりふり構わず私の手を引いてくれていたら、私はこの家を出たかもしれない。
けれど彼女はそうすることはなく、だったら今すぐ家を飛び出して追いかけることもできるはずだった。
なのにそれをせずに泣き崩れるだけの私は、やっぱり臆病で卑怯な存在に過ぎないのだ。
***
15.01.04