夢小説
□ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ
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広すぎず狭すぎずなこの部屋はスイートルームでこそないが、品のある調度品が揃えられていた。
私が座っているデザイナーズソファも柔らかく私を包み込んでいる。
しかしその上質な居心地を引き剥がして、私はいそいそと席を立った。
「じゃあ私はこれで」
求められていた"商品"を渡してしまえばもうここに用はない。
本来情報をやり取りするだけならわざわざこんな高級ホテルの一室を借りる必要もないのに、今日に限っては待ち合わせに提示されたのはこの場所で。
そのことに対して私はなんだか嫌な予感を感じていた。
「そんなに急ぐことないじゃない」
しかし向かいに座る取引相手――ヘックスはソファに深く腰を落ち着け、のんびりと、しかし言外に不服さを込めた口調で私を引き留めた。
正直なところ、彼女とその部隊のメンバーが控える密室にはあまり長居したくない。
ヘックスとはそろそろ半年の付き合いになるが未だ彼女がなんとなく苦手なのだ。
こちらを見透かしじわじわと絡み取っていくような彼女の人柄は、美しい顔立ちも相まって底が見えない。
そして相対していると、暗い森の中で得体の知れない何かに脅かされているような言い知れない恐れを感じた。
それが彼女の持つ名前の所以であろうが、こればかりは仕方がない。
情報屋として情けないことだけれどいつもと異なる状況なら尚更だ。
改めて見てみると、黒い皮張りのソファでくつろぐヘックスは醸し出す強さも相まってまるで闇の女王様のよう。
「ここのカフェのケーキ美味しいのよぉ。そろそろ来る頃なんだけど」
微笑みつつも拒否権を与えないその言葉。
彼女を知らない人であればその微笑は恐らく誰もが見惚れるものだろう。
だが私には彼女の名の通り、魔女が人を騙す時の仮面としか思えない。
丁重に辞退しようと口を開きかけたその時、タイミングを計ったかのようにドアをノックする音が響いた。
時を逸した私は「デハ、遠慮ナク」と再度ソファに腰を下ろすしかなかった。
「あなたたちはもういいわ」
ヘックスはそう言って控えていたカットスロートのメンバーを部屋の外へと追い出す。
彼らは腐っても兵らしく、彼女の一声で波が引くようにさーっと部屋から出て行った。
姿勢の良いボーイはまだ若いのによく教育されているようで、そんなことからもこのホテルが一流であることがよくわかる。
きっとこのケーキも私が普段食べているものの三倍くらいの値段がするのだろう。
彼は無駄のない動きでテーブルの上にケーキと紅茶を並べると、一礼して部屋を後にした。
「さ、遠慮なく食べてねぇ」
「…いただきます」
苺ショート!私の大好物だ。
毒でも入っている可能性も捨てきれないが、食べざるを得ない。いや、むしろこれは食べたい。
くつろげない状況ながらも、甘党な私は目の前の誘惑には勝てなかった。
恐る恐るケーキにフォークを差し入れて口に運ぶ。
「…おいしい!」
「でしょう?」
「はい」
柔らかなスポンジはほんのり甘く、生クリームもくどすぎなくて二つの甘さがうまくマッチしている。
後を引くおいしさに取引相手の前であることも忘れてぱくついていると。
「苺、最後に食べるタイプなの?」
「え、ええ」
ヘックスはふうんと笑んで、△△らしいわね、と言った。
美味しいと勧めた割に一口食べただけでフォークを置いた彼女は、うっすらと笑みを浮かべてこちらを眺めていた。
それはまるで、そうしているだけで十分満足なのだと言わんばかりに。
しかし私はその視線に気づいて初めてビジネスの場であったことを思い出し、バツの悪さを隠すように咳払いして紅茶を飲んだ。
それにしてもこんな楽しそうな顔そうそう見たことがない。
なんかちょっと気持ち悪いなあとさえ思い始めていると、彼女が口を開いた。
「今日は私から話があるの」
「何でしょうか」
改まって告げられるそれにいよいよ来たかと戦々恐々だが、私もプロの端くれだ。
顔に出さずに涼しい顔で続きを促した。
「うち専属にならない?」
「っ!?」
飲んでいた紅茶を吹きだすことはすんでのところで抑えた。
しかし変なところに入ってしまってケホケホとむせてしまう。
ヘックスは「大丈夫ぅ?」なんて笑いながら心配を寄越すが、それよりもまさかの提案に私はどう返事をしたものかわからない。
というか、まずは正常な呼吸を取り戻さなければ。
「専属、というと語弊があるわねぇ。すでに今、ほぼうちの仕事しかしていないわけだし」
そんな私に対して言葉を付け加えた彼女だが、正確に言うと今では"ほぼ"どころか私の客はヘックスだけになっていた。
以前付き合いのあった客たちはいつの間にか、――というよりきっとヘックスが裏で糸を引いたのだろうけど――疎遠になっていて、でもヘックスから依頼される仕事だけで十分生活していけたからそのこと自体はあまり気にしていなかったけれど。
「私の部隊に入らない?」
言い換えたヘックスは私に笑みを向けるが、私は笑えない。
彼女が情報屋としての私を囲い込みにかかっていることには薄々気付いていた。
やりにくい相手ではあるが金払いはいいし、一定の距離を保っていれば害はないだろうと暢気だった自分を呪う。
専属なら百歩譲ってまだわかるが、部隊の一員に加わるとなるとまた話が違う。
「えーっと、念のためお伺いしますが私に選択権はありますか」
「一応あるわよぉ」
その「一応」がどの程度のものなのかが気になるが、聞くのも怖い。
とはいえ私の今後の人生を左右する岐路に立たされているわけなので、聞かないわけにはいかない。
「仮に、あくまでも仮にですけど、お断りした場合は…」
「あなたは仕事ができなくなるわねぇ」
恐る恐る尋ねた私にヘックスは軽い口調で答えた。
彼女の言う”仕事ができなくなる”の意味するところに思い至ってぞっとする。
「それはつまり…」
殺されるということですか。
とまではさすがに自分の口に出せるわけがない。
「△△に仕事を依頼する人間は今後も現れないということよぉ」
命を奪われるわけじゃないんだ、とほっとする。
しかし、それはつまり間接的に商売を妨害されるということ。
今まではヘックスという太い収入源があったが、それを拒否すれば私の客は0となりご飯が食べていけなくなるということを意味していた。
私を頼ってくる客がいないというなら心機一転何か飲食店でも開いてみるのも道の一つだが、きっとそこも魔女の長い手で潰されるのだろう。
それに、天職だと自負している、この仕事しか知らない私が他の職でうまくやっていける自信はないに等しかった。
やはり私には選択肢は残されていないらしい。
「随分強行ですね」
引きつる頬を無理矢理笑顔に変えて私は精一杯の皮肉を言った。
「それが私のやり方なの」
あなたも知っていたはずだけど?とヘックスは涼しい笑みを浮かべて紅茶を啜る。
「――一つお聞きしたいんですが、どうして私なんですか」
努めて冷静になろうとこめかみを押さえながら、私は気になっていることを口にした。
そうねぇ、と彼女は勿体ぶってこちらを見た。
「△△が欲しいからよ」
「答えになっていない気が…」
「あら、わからない?」
心底不思議そうにそう言ったヘックスはゆっくりとティーカップを置き、そして身を乗り出した。
私と彼女を隔てるローテーブルを這うように乗り越え、私の腿のすぐ横に手を突く。
そうなれば彼女の綺麗な顔がぐっと近くなって。
逃げる隙はあったようにも思うけど、ヘックスのその行動はあまりに予想外で息をするのも忘れて固まっていた。
この事態に静かなパニックに陥っている中、彼女は私の耳に唇を寄せる。
そしてその独特のアルトボイスで告げた。
「私のモノになりなさいって言ってるの」
鼓膜を打つ刺激的な告白に顔がかっと熱くなる。
彼女の掌が私の頬に寄せられ、思いの外華奢な指が肌を撫でる。
優雅さも兼ね備えた細長い指先は少し高めの熱を孕んでいて、彼女の熱情の強さがそこに表れているかのようだった。
「すぐに私しか見られなくなるわぁ」
耳元にそっと吹き込まれるヘックスの声は深みがあって、ぞくりとしたものが背中を走る。
目と鼻の先にある彼女の長い髪は硝煙の臭いしかしないだろうと常々思っていたが、予想に反して心地いい香りが鼻をくすぐる。
それはまるでいい女の証明でもあるかのよう。
匂い立つ彼女の「女」の部分に眩暈がする。
ヘックスは視線を一度私に合わせると、私の唇を見つめ距離を詰めた。
僅かに伏せられた瞼の先に揃う睫毛は長く、美しい。
そんな彼女に不覚にも見惚れながら、私はくらくらする頭の片隅で必死に正常な判断を探り当てた。
「ちょ、ま、待ってくださ、」
叫んだつもりだったが、緊張の余り出た声は情けなくも掠れていた。
しかしヘックスはしっかり聞き取ってくれたらしい。
「――今日のところは止めておきましょうか」
私のうろたえようが余程おかしいのか、彼女はくすくすと笑い出す。
その様子にからかわれたのだと気付き、込み上げてくる羞恥心。
しかしヘックスがすっと身を引くのと同時に彼女の甘やかな香りも離れて行って、私は何故だか離れがたさを覚えた。
とは言ってもほっとしたのは確かで。
なのにそれも束の間、ヘックスは楽しそうに付け加えた。
「いつまで待てるかはわからないけどねぇ」
ぽかんと口を開けた私に彼女は妖しく笑い、さらに追い打ちをかけた。
「私、苺は最初に食べるタイプだから」
その言葉に私はくらりと二度目の眩暈を覚えた。
妖艶に弧を描く赤い唇と、真っ直ぐにこちらを射る眼差し。
その二つは絶対に逃しはしないと物語っていた。
「――それで、返事は?」
さて、私にあるのはたった一つだけの選択肢。
そしてそう遠くない未来に思い知らされることになる。
この時すでに彼女の掌の上に乗せられていて、彼女に魅入り始めていたことを。
***
15/04/09