ぶっく3

□ゆるやかにゆるやかな
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耳が冷たい。首筋も冷たい。朝は冷えるなと思いながら、わたしはマフラーを口元まで上げた。







ゆるやかにゆるやかな









おはよーという声に1つ1つ返事をしながら席に着いた。皆気付いているはずなのに、まるで腫れ物を扱うかのようにこれには触れてこない。いつの日にか形作られていた噂なのか慣習なのか儀式なのかしきたりなのか、そんな何かを気にされて、触れられない。




お昼を食べようとして無意味な動作に気がつく。昨日までとは違う。その違和感に、手は少し物足りなさを訴えながら滑り落ちた。この訴えは今日で何度目だろう。考えが行き詰まったときや誰かと話すために顔を上げるとき、愛想笑いをするときや苛立ちを隠すとき、気づけば日常の中に溶け込んでいたその存在に何だか改めて気付かされたような気がした。失って気付くとはこういうことを言うんだろうか。そんなことを思いながらわたしの手はまた物足りなさを訴えた。





珈琲の香りが胸に広がる。まだ口に含んでいないのに、何だか暖かくなったような気がする。休憩が終わる前に飲むこの一杯は、昨日までと何も変わらないけれど。ふと、左耳をつまんでみた。冷たい。あぁ、冷たいなぁ。昨日まではそんなこと、思いもしなかったのに。







髪の毛を切った

ゆるやかな自殺みたいに







そんな表現を、どこかで読んだことがある。作品名も作者の名前ももう忘れてしまったけれど、その言葉だけが何故かわたしの中に残っていた。ゆるやかな自殺。あぁ、なんて素敵な表現だろう。そんなことを考えて。





深夜3時、わたしは自分の髪を切った。思いつきで伸ばし始めた髪だったけれど、たまに手入れもして、そこそこ大事に扱っていた。だからこそ、この髪にはそのまま、わたしの想いと思い出がつまっているような気がした。じゃきん、と響く鋏の音はまるで縄か、それとも厚い布か何かを切っているようで、ぼとり、と塊で落ちていく黒いそれは、切り離されても尚柔らかくて艶やかなままで。わたしはそれを見つめながら、特にすっきりしたわけでもなく、かといって後悔したわけでもなく、ただ何となく、あの言葉を理解していた。あぁ、これが。







左耳を掴んでいた手を、そのまま少し動かして毛先をつまむ。そのまま確かめるように少し捻って弄んで、わたしは珈琲を飲み終わって席をたった。









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