ぶっく3
□出立の時
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いくらお付きの護衛だからと言っても、主人の私室に踏み入ることができる機会はそうない。
許可がなければ触れることすら許されないその扉の前で声をかければ、中から入室を促す声が返ってくる。男は一拍おいてその扉に手を掛けた。
「失礼致します」
部屋は以前見たときよりも少し閑散として見えた。あの時は中央の机にいくつも書類や本の山が出来上がっていて、それでも乗り切らなかったものがサイドテーブルやソファの上にも溢れていた。しかしこの部屋の主が一度倒れてからはもうそのどれもが一度片付けられたらしく、それでもなんとか侍女を説得してやや小ぶりながらも細部まで繊細に造られた本棚に収まる分だけ、という条件で書物や書類を持ち込んでいるようであった。おそらく数日前までは詰め込みすぎて最早本棚の機能を無くしていたのではないかと思われるそれも、今はいくらかの本が並んだり倒れたりしているだけであった。
入り口から見て丁度正面には大きな窓がある。人の高さよりも大きいその窓の前に、その人は立っていた。
「聞いたわよ、あなた騎士団に入るんですってね」
おめでとう、と窓に向かってその人が言う。男は黙ったまま頭を垂れた。
「私も何だか誇らしいわね」
風もないのに花の香が香った。男は頭を下げたまま告げる。
「騎士団長から聞きました。私を推薦してくださったと」
「あら、そうだったかしら」
「騎士団なんて、私にはとても務まりません」
騎士団への入隊はこの国に仕える者にとってこの上なく名誉なことだ。しかしその門は狭く、本来この男のような出自の者には考えられない程の処遇であった。
「珍しく弱気ね」
「……何故、」
低く、唸るように男が言う。左手は固く握りしめられている。
「私を連れて行ってくださらないのですか」
少しの静寂があった。
もう何年前になるのだろうか。悪戯好きでよく自分たちを困らせた少女は、自分の身は自分で守るのだと木の上で豪語していたあのお転婆娘は、そしてあの小さな手で男の腕を引き息を切らしながら医務室に駆け込んだ愛らしいお姫様は、もうここにはいない。
「顔を上げなさい」
静かに、しかし有無を言わせぬ口調で男の主は告げる。その命令に男は従う他ない。
窓から射す夕日がその輪郭を形作っていた。
身に纏うのは国一番の職人が作ったと噂のドレスで、滑らかで上質な白い布地に銀糸で刺繍が細かく施されており、派手ではないが華やかで品があった。そしてそのドレスの上を緩やかに流れる髪は日に透けて金色にきらきらと煌めき、それら全てを夕日が柔らかく哀しく包みこんで、今男の目の前に立つ人をこの世のものではないほど美しく際立たせていた。
あまりに神々しいその姿に、男はその口から何も発せなかった。
光を纏う その表情だけは、影にぼやけて見えなかった。それでもあの凛とした瞳が真っ直ぐにこちらを見ているのが分かる。
「私はこの国が好きなの」
「だから、一番頼りにしている貴方を置いて行くのよ」
その人が瞬きをしたその一瞬、睫毛に夕日が反射した気がした。
この人はいつの間にこんなに他人の扱いが上手くなってしまったのだろうか。その言葉を聞いてしまえば、もう男が何も言えないことを知っている。
「それに私、もう自分の身は自分で守れるわ」
だってお姫様だもの、そう言っていつかのように笑う眼前のお姫様に、木登りはやめてくださいね、と男もつい目尻を下げた。
【出立の時】
どうか、ご無事で
ーーー
花嫁姿の、僕の大切なお姫様