ぶっく2
□思考中
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最初に聞こえたのは、コツコツという音。それからぼんやりとした意識の向こうで、誰かの話す声が聞こえた。
目を開ければそこは、見たこともない場所で。
わたしは椅子に座っていた。机もある。その部屋には30人くらいの人がいて、皆おなじような机と椅子と、服装と。
ただ一人だけ、先程から部屋内を歩き回っている30から40くらいの歳のよれたシャツを着た男だけは、部屋の中をぐるぐると何かを話しながら歩き回っている。そのたびに男の足音がコツコツと響き渡り、それが先程の音だと気づいた。
ここは一一どこだろう。
どうも記憶がない。待てよ、わたしはさっきまで何をして一一…あれ、わたしって、誰、だ。
じとり。嫌な汗が全身を覆った。
わたし、は…わたしだ。じゃあ名前は?わたしの名前はなんだ?
考えても考えても出てきそうで出てこなくて、もどかしいような、歯痒いような思いだけが積もる。なんだろうこの感じ。ちょうど、そう、さっきまで見ていた夢を思い出せない、みたいなあんな感じ。
きいん、と耳鳴りがした。ずきずきと頭が痛む。一一これが、記憶喪失ってやつ?心臓がどくどくと脈うつ。自分の名前が分かんないってかなり重症なんじゃないの?と言うより、なんでわたしこんなに冷静なんだろう。いや、全然冷静じゃない。
部屋の壁に備え付けられたスピーカーから何か音が流れてきた。途端、さっきまでは静かだったその部屋が急に騒がしくなる。あの歩き回っていた男は気づかぬ間にいなくなっていて。
部屋の中を見回せば、殆どが二人か三人ほどで集まってなにか話している。どういうことだろう。この人達の記憶は消えてはいないのだろうか。だとすると、自分の名前も分からないような輩はわたしだけ、か。
迂闊に動くこともできずただぼうっと周囲を観察するだけのわたしに、明るい毛色の睫毛が異常に長い女が声をかけてきた。
「おーいみーちゃん、ぼーっとしてどした?」
どうやらわたしの名前はみーちゃんと言うらしい。まるで猫の名前のようだが『みさき』か『みゆき』か『みゆ』か…まぁそこらへんだろうか。どれも全然ピンとはこないが。
どうやら『みーちゃん』とこの女は知り合いらしい。女はいつの間にか空いていたわたしの前の椅子に腰掛けた。
「さっきユカが田中に呼ばれてさー、大丈夫かな…と、ちょうど戻ってきたじゃん。ユカーっ!!」
ユカと呼ばれたその女は、いかにも不服だと言いたげな顔をしながらこちらへと向かってくる。目の前の女と同じバサバサの睫毛。髪は黒髪でスカートがやけに短い、と、ここで初めて女子はスカート、男子はズボンを履いていることに気づいた。
「ユカ顔酷っ!!田中に何か言われたの?」
ユカはわたしの隣の席にどかりと座ってから、はぁぁと長い溜め息をついた。
「もー…最悪。別にちょっと携帯いじってただけなのになんかウザいことぐちぐち言われて…最終的に携帯取り上げられたし。マジでむかつく意味わからん」
ユカはぐだくだと愚痴をこぼす。一一と、急にわたしをじーっと見つめてきた。
「みーちゃん何かあった?」
ユカの睫毛がバサバサと上下する。それに続いて茶髪女も「今日のみーちゃんなんか変だよね」と言ってきた。
「そ…そうかな?」
口にして初めて、わたしはこんな声なのか、と思う。何の特徴もない、没個性的な声。聞き馴染みもなかった。
わたしの返事に、2人は同時に眉をひそめた。
「え、なにあんたマジでなに!?怖っ!その喋り方っ!!なに?どした!?」
ユカが若干体を引きながらまくし立てる。え?なに?一言『そうかな』って言っただけなのに。
「え、へへ…ちょっと寝ぼけてるのかも」
更に眉をひそめる2人。しかも今度は何も言ってこない。なんだろう。みーちゃんとわたしで何がそんなに違うんだろう…ってかみーちゃんはわたしなんじゃないのか。それとももしかして別の人間の体に入り込んでしまったのだろうか。
未だに身を引いたままの2人に、わたしは思い切って質問をしてみた。
「ところであの、寝ぼけてるついでに聞きたいんだけど、ここって、どこ?」
途端に、2人同時にどかりと席について盛大にため息をつく。
「びびった〜それでこそみーちゃんだよっ!!急にまともな事言い出すから何かと…」
「そーだよっ!!あんたは今まで通りでいいんだからっ!!ちなみにここは学校だよっ!!」
茶髪女、次いでユカと、肩をポンポンと叩いてくる。みーちゃんという人間が更に分からなくなった。おかしな言動をする人間なのだろうか。
「が、っこう、」
ユカの言葉を反芻する。きいん、と耳鳴りがする。ヤバいな、と思うと同時に、予想した通りさっきと同じ痛みがわたしを襲った。ずきずき、頭が痛む。
「みーちゃん?どうした?みーちゃん!?え、ねぇ!大丈夫!?」
茶髪女かユカか…どっちの声だろう。気づけば頬に何か当たっていた。なんだろうこれ。冷たい。床?地震?世界、が、回って…?ずきずきずきずき
「っ、…、い…っ!」
頭が割れそうな中、視界がぐにゃりと曲がった。あまりにうるさい耳鳴りを掻い潜って、誰かが遠くで「ミカミっ!!」と叫ぶ声が聞こえた。
あぁ、もしかしてわたしの名字はミカミというのか。もしかしてみーちゃんの由来って、
そう考えたのを最後に、わたしは完全に意識を失った。
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