□しずく
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風呂の栓を閉め、湯の張っていないバスタブに腰を下ろす。熱いシャワーを出しっぱなしにし、頭から被る。一人暮らしを始めてまだ一ヶ月程。授業と家事とで地味に疲労が蓄積されて体がだるい。それを昼間つい友人に愚痴ると、ゆっくり風呂に入ってみろと言われた。まるで親のような事を言う。しかし、考えてみると此方に移ってから一度もきちんと湯に浸かった記憶がないと気付き、久々にゆっくりと温まろうと思った。


「……………」


そっと背筋を伸ばす。上を向く。勢いよく湯が顔を這い、逃げるように冷たいバスタブに背をつける。一瞬、ぞくりと寒い。けれど、膝にあたるシャワーとゆっくりと溜まっていく湯にすぐに力が抜けて。
息を吐く。シャワーカーテンも天井もバスタブも酷く白く見える。蒸気で視界がぼやけてる。じんわりゆっくり、体が湯に浸かっていく。その感覚が気持ちいい。
ちょっと前までは嫌というほどゆっくりと風呂に入っていた。一人で、ではないけれど。
そもそも、そこまで風呂が好きなわけではないからシャワーですませてしまうし。風呂が好きだったのは、


「は、ぁ…」


のんびりと体を洗う姿を眺めながらただじっと湯に浸かっていた。ふわふわした銀色は予想通り多量の泡に包まれ、泡はすぐに流されていった。それから此方を向いて、狭いバスタブに無理矢理入ってきて。大量のお湯が溢れ、ごぽりと音をたてて排水溝から落ちていく。体が密着して、温かい所か熱くて、熱くて。

泣きそうになった。一人なのに狭いバスタブで手を伸ばす。勿論何もなくて、いなくて、ただシャワーのお湯が腕にかかる。将来の為に一人になった。先生はいつものようにヘラリと笑って、『そうか』としか言わなかった。
湯が背中の半分までを覆う。その温度に溶けそうになる。疲労や、だるさや、意地が。
ちょっと出掛ける程度に笑って、一人になった。大学は予想していたより楽で、すぐに馴れた。先生とは忙しいからたまにメールするだけ。それでも四年くらいなら平気だと思った。
シャワーが膝を這う。少し熱くなってシャワーカーテンから腕だけ出す。気持ちいい。ユニットではなくセパレートにすればよかった。頭がぼんやりする。


「あー…」


少しでも顔を歪めて欲しかったんだ。
冗談でも寂しいと言って欲しかったんだ。
泣けばいいと思ったんだ。

それなのに、たかが一ヶ月で。ちょっと疲れただけだろうに。
湯が胸まで溜まる。溶けてしまう、意地が。堪えていたのに。
もう。
恋しくて恋しくて恋しくて。
シャワーカーテンを開けたら紅い目が近くにある気がした。幻想だとわかってる。もう湯は大分溜まった。シャワーを止める。そっと指を動かしめくる。


「………………はっ」


当たり前にいない。風呂の縁に頬をつける。体の大半が湯につかり、大半のものがじわじわ溶けていって。
一滴、目から湯が落ちた。
頭がくらくらする。流石にもう出た方がいいだろう。
全てが完全に溶けてしまった。
もう、いいや。













電話が鳴った。見ると、遠くに行ってしまった愛しい教え子からの電話で。名前を見て最後の歪んだ笑顔を思い出す。前髪と眼帯で隠していても泣きそうになっていることがわかってしまう顔を。

それを笑って見送った。寂しがっているのにそれを隠そうとして。意地を張っていることに気が付いたから。


「もしもし」

『……銀八』


電話の通話ボタンを押す。
久々に名前を呼ばれる。泣きそうな細い声。ああ、なんて可愛いんだろう。嬉しくて顔が歪む。


「…高杉」


それでも、やっぱり先生は意地悪なので。
寂しかった、なんて本当のことは言ってやらない。





終わり





一人暮らしは寂しいぜぇ…!


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