短編

□薬指に口付けを
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その日は朝からずっと曇っていた。
重たい圧力を感じさせる灰色の雲が、色濃く空を覆いつくしている。

降りそう、だ。雨が。

縁側で空を眺めながらそう思った。
この時期はどうにもじめじめ蒸していていけない。頬を撫でる微かな風も湿気を帯びていて、息の詰まるような空気が部屋中に蔓延している。

分厚い雲に隠された空は、時間の経過を感じさせない。
夕焼けも見えぬのに、彼女が俺の部屋を訪れたのは夕方のことだったとはっきり覚えている。それはたぶん、彼女は時間に正確な人だったから。

夕方5時に会いに行くよ、と
初めて逢瀬をしたときに約束した時刻を、彼女は何を思ってか、今日に至るまでずっと守り続けている。(人目をはばかる理由など有りもしないのに)


そうして今日も、彼女は来た。
昨夜彼女はひどく衝撃を受けていたようだから、若しかしたら今日は来ないかもしれないと思っていたのだが。


「いつ行くの」


その声にはなんの影もなかったが、隣に立った彼女の顔を見上げると、今にも泣き出しそうだ。
俺が何も言えずにそのきつく噛み締められた唇を見つめていると、彼女はそれに気付いたのか、顔をそむけた。
そして俺の隣ではなく後ろに、背中を合わせて座り込む。(泣き顔を見られまいとしていたのか)


「……明日にでも、この家は発つ。戦に出る日は、それから銀時たちと話し合って決める」


そうして、部屋に沈黙が下りる。


***


夜になるのを待って彼女を押し倒した。彼女が部屋に来てから夜になるまでにどれくらい時間がかかるのか、この体はよく覚えていた。

布団の上で抱き合っても、それだけだ、俺たちは。何度か唇を重ね、抱き合ったり撫ぜたり、それぐらいしかしない。
それでも、部屋の真ん中に敷かれた布団に横たわる彼女の体が冷え切っていたのはよくわかって、まるで人形のようだと何度も思った。


最後の夜ぐらいは、とも考えたのだが。こんな状態の彼女に手を出そうなどという気は微塵も起きなかった。それに、これ以上触れたら離したくないと思ってしまいそうで、(それだけは避けなくては)。


「ほら、」


腕を差し出してやると、彼女はおとなしく、その上に頭を乗せる。
何度かもぞもぞと動いていたが、ようやく自分の落ち着く位置がみつけられたのか、俺のほうに顔を向けた状態で止まった。俺も彼女に顔を向け、じっと見つめあう。


(「小太郎って、あんまりきれいだから」)
(「見つめあってると、つい目を逸らしちゃうんだよね」)


いつかの彼女の、はにかんだ表情を思い出した。
今日の彼女は、目を逸らさない。


「小太郎」

「…何だ」


頬に、ひやっとした冷たい感触。
それは柔らかくもある彼女の手で、その上に俺は自分の手を重ねる。これ以上冷えてしまうことのないように。

まっすぐに、彼女は俺の目を見た。
その瞳には昨夜のような絶望こそなかったが、哀しみや、戸惑いや、寂しさや、いろんな感情が渦巻いているように見える。
そして俺は、そんな瞳の中に一つ、強い強い決意の光をみた。


「死なないでね」

「当たり前だ」

「帰ってきてよね」

「約束しよう」

「わたしはずっとここにいる」

「そうか」

「でも、待っててあげない」


彼女は悪戯っぽく笑った。心底楽しそうに、でも少し淋しそうに。


「わたし、小太郎たちがいない間に、結婚しちゃうから。優しくてかっこよくて頼りがいがあって、ずっとずっとわたしを大切にしてくれる人と結婚して、しあわせに暮らすから」


だから、小太郎が帰ってきたって、わたしはあなたのものにはならないんだよ。

そう言い切ると気が済んだのか、もう一度彼女は笑う。


「……はは、そうか。それは残念だな」


精一杯な宣言に、俺も笑いながら返し、彼女の髪を撫ぜてやった。

――しあわせに。しあわせに暮らす。

ぜひそうしてくれ。但し、それができるなら。俺がおまえを置いていっても、前向きに生きていけるなら。

(でも)

おまえは脆いようで芯はしっかりしているから、きっと大丈夫だろう。
若しかしたら本当に、どこぞの良い男と結婚して、あたたかい家庭を築くかもしれない。
そうなれば喜ばしいことこの上ないが、それは。これから戦に出る男としてではなく、桂小太郎という、一人の人間としては。




(妬けるな)




勿論そんな身勝手な言葉を口に出来るはずもなく。(何せ俺は、おまえを置いていくのだ)
俺の頬の上で重ねあっていた手を引き、口元に寄せた。

言葉に出来ない嫉妬を、悔しさを、寂しさを、恋しさを、愛しさを。
全て唇にこめて、何度も何度も、彼女の薬指に口付けを落とした。


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