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□彼が煙草を吸う理由
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無味乾燥に機械的なブザー音が響いた暫くのち、つまり休憩時における軍事訓練場の隅で。多分、人が来るとは思っていなかったのだろう。
コンクリートに腰掛けた彼は、現れた上司を見上げて珍しい表情を見せた。ぽかん、と呆気に取られたような顔を。

「なんて言うか……流石に倒錯感がありますね、君が煙草を吸ってる光景って」

手持ち無沙汰にうろついた結果、喫煙中の知った顔を偶然見つけてしまった若き隊長は何気なく呟いた。
その視線の先には部下であるマウス・カ・ブームの小柄な肢体、と、その口元から紫煙を立ち昇らせる紙煙草。恐らくは深い意味もないであろう指摘に、外見を裏切って可愛げのない歩兵は我が意を得たりというように、にやぁんと唇を歪ませる。

「おやおやおやぁ?隊長ともあろうお方が人を見た目で判断したらアカンのちゃいますう?」

耳慣れないイントネーションで迸る、慇懃無礼も裸足で逃げ出すような皮肉めいた文句は通常ならば懲戒物なのだろうが、この場にそれを指摘する者は居ない。何せ当事者である隊長、フリッピーが苦笑一つで狼藉を流してしまうのだからどうしようもない。

「えっと、ごめん。次から気を付けます、で、良いのかな?」
「ふはっ、茶番やなぁ、気ぃなんて付けんでええですって。人なんか見た目やで」

先人の許可も得ずに隣に腰掛けて、付き合いの深さ故の気安さで軽口の応酬を交わす。
彼が喫煙者である事は知っていた。仮にも国に所属する軍人。そして自分は上官。嗜好品の取り寄せについてはある程度の透明化がなされているのである。

「まあでも実際に吸ってるところを見たのは初めてだね」
「これでも配慮しとりますから。考えてもみて下さいって、あのガキんちょの前で吸うた日にゃ……絶対やかましい事になるて」
「あはは、確かに」

業とらしく眉を顰めるマウスに、堪えられずに声をあげて笑う。あのガキんちょ、とは、恐らくもう一人の部下のことだろう。呼称に違わず子供っぽいところのある彼は、普段無気力を装っているくせに妙に頑固だ。紫煙を燻らす先輩兵士の後を着いて回りながら「臭い、臭い」と鼻を抓む様子が脳裏に浮かぶ。
自らの想像に、ふふ、と目を細めると、同じような事を考えたのか隣からも笑いの混じる吐息が漏れた。何だかんだと言いながらマウスがあの後輩を可愛がっている事は明白だ。そんな後輩……スネイキーが、恐らくは無意識に彼を兄のように慕っていることも。

「そもそもこんな場所で倫理観も何もあらへんでしょう?」
「成る程、だからつまり倒錯もないってこと」
「そういうことです」

思い出したかのように身も蓋も無いことを零しながら、マウスは断りもなくその小さな紙筒を噛むように咥えた。軍服に覆われた胸が僅かに上下し、やがて毒を孕んだ溜息が、煙を伴いゆっくりと吐き出されていく。

「《こんな場所で》……こんな場所やからこそ」

ぼそりと落ちた呟きは、独り言との境界が曖昧ではあったが。
だからといって聞き零すような真似はせず、フリッピーは相槌もなく部下をただ見つめる。

「偶にどうしようもなく吸いたなることがあんねん」

辺りには緩やかに、しかし確実に濃くなっていく紫煙が漂う。決して心地のいいものではない、鼻につく匂いも。
それらに身を委ねながら、……そのどこか良い訳じみた言葉を聞きながら。

「そうですか」

フリッピーは深緑の瞳をそっと閉じて、そんなただの、感想とも言えない答を返す。
突き放したわけではない。肯定したわけでもない。けれど、気の利いた事を言う必要はない。
自分の部下のことならば、全てと言えずとも少しなら理解しているつもりだ。だから知っている。
マウスは、……彼は、他人に答えを求めるような男ではないのだと。

「なんって、ただのニコ中なんですけどね」

案の定、今までの静かな雰囲気など初めから無かったかのように、ニカッと笑うマウスに、その上司はどこか安心したような寂しいような心持で笑顔と軽口を投げ返す。

「でも身体に悪いよ?」
「それこそ!《こんな場所で》でしょう?」

でも、それはあまりにもあっけらかんとした口調だったから。
心配性の隊長はついつい説教じみた事を言いたくなるのだ。

「……どんな場所でも、知人の心配くらいはするよ?」

人の命を奪う道具を背に担ぎ、疑心の塊たる防弾ベストを着込みながら紡がれた柔らかな忠告は紛れもない本心で。

「甘ったれてるかな?」

平和な価値観への執着と、少しばかりの自嘲を込めて問いかける。同時に辺りに響いた、休憩終了のブザー音。
未だ漂い浮かんでいた紫煙をコンクリートに消し潰しながら立ち上がったマウスは、少し笑うだけで何も答えてはくれなかった。


























「…………甘ったれてるよ」

壊れそうな程に慌しく廻る換気扇。
その下で白い煙を吐き出した。窓は開けない。喫煙者であることをこの街の誰にも明かさないのは、腹の中で渦巻く後ろめたさを自分でも認めたくないからなのかも知れない。

こんな場所、だからこそ。

その意味を正しく理解したのは、戦場から生き帰った後だった。平和な世界の中で得た疎外感。自分だけが知る、濃密過ぎる死の香りを、死体袋の幻覚を、腐敗していく肉の色を、血と火薬の感触を、タバコという草と紫煙は、それらを掻き消す為になんて便利な道具なのだろう。

「茶番、ですね」

まるでそこには居ない誰かに話しかけるかのように独白をして。
そして、鼻に憑いた死臭の記憶を上塗りする為、フリッピーは今日も毒素を孕んだ煙を食んだ。


【end】

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