長編

□IRREGULAR
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ドアが開く音がした。

「…………え?」

齧りかけのチョコチップクッキーをお皿に戻す。読んでた小説もキリがいいので、栞を挟んで脇に置いた。

──ノックの音は、しなかったと思うんだけど。

僕が今居るのは玄関からそう遠くない部屋の、ソファーの上。だから聞き逃した訳ではないと思う。……第一、ドアが開く音は聞こえてるわけだし。

ノックをしない人は、実は結構いる。
けど、そういう人はそもそも……
例えばディドさんならドアごと吹き飛ばしたりするし(その場合『僕』は彼と会えないんだけど)、ランピーなんかは大抵何か叫びながら近づいてくるし、双子は窓から這入ってくる。他の人は──

なんて、
こんな夜更けに誰かが押し入ったというのに、僕は暢気に構えていた。

だから、静かに部屋に入ってきたイチちゃんを見て反応が遅れる。……あんまり驚きすぎて。
その黒くて小さな女の子は、まるで自然な動作で扉を開いて自宅にいるような所作で歩く。イチちゃんは滅多にこの家に来ない。それに、こんなことする子じゃないと思ってたし、記憶が無くても常識のある礼儀正しい子だと知ってたから。でも、

「……」
「ど、どうしたのイチちゃ──っ!?」

立ち上がろうとしたら、近寄ってきたイチちゃんに思いっきり押された。後ろはソファーだから痛くは無いけど、凄い力だ。何が起こってるのかさっぱりわからない、どうしよう……僕は結局動けないままで、なすがままになってしまっている。アイツが見たら『ぼけっとするな』とはたかれそうだと間抜けに考えていた。抵抗もせずにソファに背中を預けて、意識が裏返る気配もない。

「い、イチちゃん?何かあったの?」

やがてイチちゃんは僕を押し付けたまま、自分の膝をソファーに乗り上げさせて、やっと止まった。これ……もし僕らの位置が逆だったなら、誤解されるのに十分すぎる体制じゃないのかな。

「………リ……は」
「え?」

少女の声はいつもと違って聞き取りにくくて、思わず聞き返せば俯いていた彼女が顔をあげた。小柄な彼女はソファーに膝立ちになってやっと僕と目線が同じになる。

珍しい漆黒の髪と目が、とても近いところにあった。

「イチちゃん……?」

何度か会って話をする内に、ひどく真っ直ぐに物事を見る子だと思った。
初めて会った時からその瞳はある意味では伽藍堂で、硝子玉のように透き通るような印象を受けた……記憶が無いと聞いて少し納得したけど、多分、彼女は本質的にそうなのだろう。

有るものを在るが儘に見つめることに、長けている。

だから彼女を見る側からすれば、その忖度のない瞳は何だか穏やかな鏡を見ているようで、自分でも思いも寄らないうちに手の内を晒してしまっていたりする。これは穏やかじゃない鏡を持つ僕だからこそ感じることなのかもしれないけれど。

そう、思ってたんだけど。

「どうか、したの?」

殆ど何にも考えずに動かした右手は、不思議と拒絶されなかった。しっちゃかめっちゃかに解れて目にかかる黒髪を掻き分けるように少し除けると、

「フリ、ッピーは、さあ……」

今まで見たことのないくらいどろりと湿った瞳はただ黒々と闇色で、それだけで、景色も、今目の前にいる僕の事も、間接照明の灯りでさえも何も映ってはいない。

どこか虚ろな様子で呟くイチちゃんはいつもと何か違っていて、おかしい、と本格的に訝しがったとき、

「フリッピーはさあ、もう一人のフリッピーのことすき?」
「へっ?」

いきなりアイツのことが出てきて驚く。

「それともきらい?」
「いや、え?なに」

何で急にそんな……?
多分、僕は今日一番の間抜け顔してると思う。
とりあえずちょっと、落ち着かなきゃ。そうじゃなきゃ、もう、何がなんだか分からない。
そうやって、混乱を沈めようとするのを邪魔するように、イチちゃんはぼそりと呟いた。

「自分の為に人を殺すあの人の事がきらい?」

背中を逆撫でされたように、ひやりとした何かが僕の中を駆け巡った。
無意識に動いた手が薄い肩を揺らす。

「ッあ、ごめん……!」

咄嗟に力を抜いて離したけど、遣り場を失った何かに手が細かく震える。薬を飲まないと。きっと容赦も出来ず掴んでしまったその肩は痛んだろうに、彼女はまるで人形みたいに表情ひとつ曇らせないで、ただいつもとは違う瞳で僕を見ている。
ただ無言で、僕の答えを待っている。

「僕は、アイツは…………確かに、戦争も終わって今は平和だし……」

銃弾と怒号が飛び交い硝煙と死臭に満ちていたあの場所で僕が死ななかったのは間違いなくアイツのお陰だ。
けど、もういいんだと、もう殺さなくてもいいんだと、何度言ってもきいてくれない。この街に来てからは僕の大事な人も、そうでない人も、初対面の人でさえアイツは殺す。その見境の無さは、寧ろ戦時中より酷くなっている。

「じゃあもう必要ない?要らない?」

そう。
誰も彼もをまず殺してしまうような、そんな極端な警戒はもう僕等には必要ないのかもしれない。
畳み込むように問われて、訳が分からなくてイチちゃんをただ見るめると、目が合って。

その目を、僕は知っている気がする。

「……たしかにアイツはもう、必要ないんだと思う」

必要だなんて、言えるわけがない。
僕は流れた血を知っているから。どれだけ軍服を赤く染めたかも、どれだけ多くの悲鳴を生んだのかも。精神安定剤の苦さも。

だから、要らない。
でも。
決して必要では無いんだけど。
つまりこれは全然合理的じゃなくって論理的じゃなくって、単なる僕の甘ったれた考えで、

「でも、僕はそれでもそれなりに、アイツの事が好きだよ」

──ただの本音だ。
途端に黒い双眸が微かに揺れる。

「……ぃ」
「え?」

ぽそりとイチちゃんが何かを呟いた。けどそれは小さすぎて聴こえなくって。
次の瞬間、彼女の声を掻き消すようにぱぁんっ!と軽く響く破裂音がして、僕の意識はひっそりと沈んだ。



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