長編

□暗闇
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「それで、」

ことん。
リビングテーブルに、少しも違わずオレの目の前に置かれたマグカップは暖かそうな湯気を浮かばせる。甘い香りと一緒に。

「あっさり家を受け渡したんですか」

サングラスをは外したモールさんはテーブルに手をつくとソファに居座るオレを見下ろした。その凍りついた目に光は映ってない筈なのに、やっぱり全部見透かされてる気がして、オレは搾り出すように言い訳をする。

「だって、零には他に行くところが、ないから」
「……いつからそんなに卑屈な声を出すようになったんです」

どこか呆れたような呟きが降り注いだが、モールさんの言うことはいつだって正しいのでオレは何も言えずカップを持ち上げた。ホットミルク。多分、蜂蜜が入ってる。ここに来たばっかりの頃は飲めなかった代物だ。際限なく甘い。

「話を戻しますが。その三日間の根拠はどうしたんです」

マグカップを抱えるオレを見かねたようにモールさんが問いかける。

「スニッフルズとランピーが言ってたんだ」

曰く、

『タイムリミットは三日なんです』

元々、この街のリセット機能にどこまで通用するかを確かめるために造られた薬だ。スニフとランピーは植物で実験をしてみたらしい、そのとき、

『三日経ったらでてきたほうが消えちゃったっ!』

普通に考えるならば、精神と肉体が再び統合するということ。しかし、オレやフリッピーの場合は、

『もしかしたら、……『元』になっている方ではない人格は、消えてしまうかもしれません』

──三日、経ったら。

まあ、それを聞いた、緑の目の方のフリッピーが珍しく怒鳴って焦って顔を青くしていたので、なんとかなるとは思う。スニフとランピーは元に戻す薬を三日以内に造るらしい。勿論、効果のはっきりした、副作用のでないものを。
この『副作用のでない』という条件においてオレは甚だ不安ではあるが。


オレが知る限り全ての事情を話してしまえば、モールさんは承知したとばかりに「ちゃんと眠りなさい」と呟いて電気を消してしまった。当然、何も見えなくなる。動けないのでソファで横になるしかなくなった。モールさんはきっと構わず動けるんだろうけど。

ああ、そういえばオレ、ついこの前も寝てないで倒れたんだっけ。
すごく昔のことみたいに思える。そんなに昔のことじゃないのに。

目を閉じても、開けても、景色は変わらず真っ黒で、

「分かるんだ」

自分の事さえ見えない暗闇の中。
聞き慣れた筈のオレ自身の声は、全然知らない人のそれみたいだった。

「知っているわけでも、教えてもらったわけでもないけど分かるんだ。三日経ったら……」

相槌は聞こえてこない。
いつも物音一つ立てずに動くあの人が、まだこの部屋にいるのかは、視覚も聴覚も当てにならない以上見極められない。でもいると思う。


「……消えるのは、オレの方だって」


モールさんはあからさまには優しくなんてしてくれない。
だから前は気付かなかった。
でも。
オレに家をくれたのも、医者に見せてくれたのも、モールさんだった。
困ったときに駆けつけてくれるわけではないし、転んだときに手をとってくれるわけでもないけど、この人がオレを置いていったことはなかった。いつだってオレの後ろに居て、氷みたいな暖かい目で見ててくれた。

だからきっと、今も黙ってオレの話を聞いてくれてる。

「フリッピーの……金目のフリッピーに親近感が沸いてたのは、オレもそう(、、)だったからなのかな……」

それともまた別の繋がりがあるのだろうか。

結局、分からなかったことは、分からないままだ。
無かった記憶はずっとそのまま。オレが零から離れてしまった以上、もう二度と自力では思い出せないだろう。だってそれは、『オレ』の記憶ではなく、零の記憶なのだから。
──オレの記憶、なんてものは最初から何処にも存在していなかったのだろう。

「モールさん、オレ、ずっと会いたかったんだ、零に。でも、零は違ったみたい」

霧の向こう側に立っている誰か。その人はいつでも独りっきりで。だから手を伸ばし続けて。

「零は、ちがったみたい……」

寂しかった。オレがじゃなくて、ひとりきりでいる誰かが、とても寂しかった。だから会いたかった。早く(、、)、靄の向こうの誰かに(、、、)会わないと(、、、、、)。どうしても……その人をひとりのままにはしておけないと、そんな自覚の無い焦燥感。
最初は、記憶を取り戻そうと思ってたのに、自分でも気付かないうちに、『誰か』に会う事が、触れる事が、オレの願いになってて。

多分、オレはその誰かに──零に笑って欲しかった。
寂しいままでいて欲しくなかった。

「──でも、零はオレが嫌いだから」

好きな人に嫌われていれば、流石に分かる。
でも、……なら。
じゃあオレは、零のために何ができるんだろう。

零の役に、立てないのならオレは──どうして、居るのか。
だってきっと、オレは零のために生まれたのに。鏡合わせの自分を見た瞬間、それだけには妙な納得と確信があった。
何も分からないし、思い出す事が出来なくても、零という存在のためにオレがあるのに。

零が、もう要らないというならばオレは────







































「イチ」

真っ黒い中で、モールさんがオレの名前を呼んだ。
それだけだった。

それだけでオレは『自分』という存在を思い出す。

その声は、呼ばれた名前は、まるで夜を照らす灯台みたいだと思って、やっと目を閉じて。



確証はないけれど、モールさんは多分、オレが眠るまで傍にいてくれた。



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