TOX

□一目見たその時から
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一目惚れなんてないと思っていた。
名前を知らなければ、性格も知らない。それどころか、声さえも知らずに容姿だけで人を好きになるなんて。そんな盲目とも言える感情など、一時の気の迷いで直ぐに冷めるだろうと。
知らないというのは案外平和なもので、自分に都合のいい妄想ばかりを思い浮かべる。
声や仕草、反応に言葉。雰囲気に性格。見た目だけを頼りに、何も知らない相手に自分の理想をもとに美化に美化を重ねる。
後に知る現実に、自分が傷付くことなど微塵も考えずに勝手に理想を押し付けて、勝手に期待して、勝手に失望する。真実を知り、一度は焦がれた相手さえも無責任に傷付ける、身勝手過ぎる傍迷惑な感情。
それが、アルヴィンが抱いていた一目惚れに対する感想だった。
昔から自分が他人にどう見られているのか、自惚れではなくただの事実として理解しているアルヴィン自身、本人が望むと望まぬに関わらず過去に何度となくそういう経験をしている。
だから、そんな自分がまさか一目惚れなんてするはずがない。これもきっと勘違いだと、切って捨てることにした。
何が切欠で陥ったのか分からない胸の動悸も、離せない目線も、知りたいと思う欲も、全てに気付かないふりをして。

(ってーのに、なんだこれ…)

何かの間違いじゃないのかと思いたいくなる程、自分の行動に呆れてものも言えない。
駅の改札口前にある喫茶店。ガラス張りのカウンター席の、改札口の真正面に位置するこの席が定位置になりはじめてから早一週間。いい加減毎日毎日飽きもせずに来る客の顔を、従業員も覚えたのだろう。注文を口にする前に見事な営業スマイルを浮かべたレジの女の子には、とうとう「いつものでいいですか?」と聞かれてしまった。
それほどまでに通い詰めているのは『いつもの』で通用するようになったこの喫茶店のカフェオレが目的、ではない。
チラリと目線を掛け時計に移せば、そろそろ連日定刻ここにいる理由とも原因とも言える、いわば元凶が現れる時間になる。ここ数日の張り込みで、駅に現れるのには大方三十分から一時間ほど誤差があることが判明した。
人の流れを作っている改札に目線を移し、ぞろぞろとどこから湧いてくるんだと思う程の人混みの中から、その人を見付けんと流れを追う。
途切れない人の雪崩から目を離さずに、温くなってしまったカフェオレを流し込み、ゆっくりと嚥下する。

(…っ、)

ピクリと体が反応したのを機にカップから口を離し、一点を仰視する。
一週間前、ある種の拷問かと思える程苦痛な空間、俗に帰宅ラッシュと呼ばれる時間帯の電車に、運悪く乗り合わせた。ようやく到着した最寄り駅で、人に押し潰される感覚に辟易しながら、開放された空間に出られてホッとしたのも記憶に新しい。
この時間は二度と使わないと固く心に誓い、さっさと家に帰ってゆっくり休もうと思っていた時だったと思う。
今にして思えば、第六感のようなものだったのだろうか。訳もなく振り向いた先で、示し合わせたように合わさった視線があった。それが今、アルヴィンがここにいるに至る元凶たる人物で、今正に目線の先に捉えている人そのものだった。
長めの襟足が跳ねた艶やかなショートの黒髪と、吊り気味の目尻はどこか黒猫を彷彿とさせる。澄んだ琥珀の瞳はいつも伏せ気味で、近寄り難い雰囲気とは裏腹に存外お人好しらしく、よく老人相手に世話を焼いている姿を見掛ける。その際見せる笑顔は、照れたような誇らしげなような、無邪気さを感じさせる。
制服を着ていることから学生であることは明白だが、学年までは分からない。平均よりは小柄で、未だ幼さを残した顔立ちが一層年齢不詳さに輪をかけているような気がする。
改札を出てから数秒間、姿が見えなくなるその瞬間まで背中を見送り、完全に見えなくなったところで力なく項垂れた。
盛大に吐いた溜め息には、自分に対する呆れとやるせない疲労感が滲み出ているに違いない。
いっそ溜め息と共にこの感情も吐き出されてしまえばいいのに、これだけは一向に薄れてくれない。

(参ったねこりゃ…)

セットした髪が乱れるのも構わずに、ガシガシと乱暴に掻き乱す。気を落ち着ける為にゆっくりと息を吐き出し、後ろ姿が消えていった方向を見やる。
一週間。甲斐甲斐しく通い詰めたのは、自分の勘違いを確かなものとして確立させる為だった。
一目惚れなんて信じない。あれはきっと何かの間違いだったんだと自分に言い聞かせ、ほら見ろ。やっぱり一目惚れなんてあるわけないだろうと、高らかに笑い飛ばすはずだったのに。

(信じたくねぇなぁ……)

気の迷いでも、勘違いでも何でもない。正真正銘の一目惚れだと、確定させる羽目になるなんて、思いもしなかった。
明らかに学生である相手と、ニ十六になる自分。その歳の差を考え、些か犯罪臭くはないだろうかと一層己の境遇に打ちのめされる。
ましてやそれが、

「男だなんて、笑えないにも程があるっての…」

ボソリと発した言葉に、そっちのケは無かったはずなんだけどなぁ、と力なく笑う。
一体どこで何をどう間違えたのか。戸惑いだらけの自分の感情の整理も儘ならない。
それでも、彼に対する興味は尽きるどころか増すばかりで、その姿を一目見んとして明日からも足繁くこの店に通うであろう自分の姿は、滑稽でしかない。
けれど、知り合おうにも接点の持ち方さえ分からない。ただ遠巻きに姿を見るだけの一方的なこの関係が、進展する日が来るのかどうかも怪しい。
どんな声をして、どんな反応を返すのか。今まで散々そうされてきたように、アルヴィンもまた他の人と同じように、何も知らない彼のことを勝手に美化して、架空の彼を作り上げては本当の姿に幻滅してしまうだろうか。
考えるとはなしに浮かんでしまった自分の考えを自覚した瞬間、ぞわりと寒気のようなものが走った。
それは嫌だと瞬間的に弾き出された答えが、つらつらと浮かんでいた栓ない躊躇いを一瞬で打ち払う。
接点がないなら作ればいい。出会いなんていくらでも作れるはずだ。
認めてしまえば一週間自身を苛み続けたこの感情も、すんなりと腑に落ちた気がする。
生まれて初めての一目惚れは年下の同性で、どうすればいいのかなんて直ぐには分からない。けれど、そう悪いものでもないのかもしれないと、思い始めている。
手探りで始める恋がどうなるかなんて、誰にも分からないのだから。
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