詩・短編
□透明人間と空
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小さなレンズを目から取り出した。
使い捨てのそれをティッシュに包んでゴミ箱に放って、ぼやけた視界で空を見た。
視力が下がった分、いくらか遠く見える気がする。
けれど、それだってあくまで「気がする」の範囲だろう。
最初から、そんな小さな差なんて気にならないほど遠いのだ。
手を伸ばして何かを掴もうとしたら、音も立てないで沢山の空気が擦り抜けていった。
それでも、世界の一部、本当に僅かな部分だけ、だけど、手に入ったような気がして、笑った。
「人の奥の痛みなんて、さ」
柔らかな視線をあたしに向けていた人が、不意に口を開いた。
どことなく、旅人のような感じがする人だといつも思う。
あの、カバみたいな妖精が主人公のアニメの、スカーフを巻いてとんがった帽子を被ってるキャラ、飄々としてて理性的で優しい、ちょっと名前が長い人。雰囲気がそのキャラに似てる。
「…うん?」
ぼやけたあたしの視線が、その人へ向く。
その人はあたしから視線を逸らしたから、あたしは横顔しか見えなくなった。これじゃあさっきの反対だ。
今度は、あたしが見てる。
「きっと本人にしか分からないんだよ」
穏やかな声でその人は言った。
日に透けて茶色く見える髪が、さらさらと風になびく。
無表情。髪と同じように色素が薄く見える目が、どこかを見てる。
「そう…かもしれない。でもなんか、それじゃあ淋しいね」
出来るだけ、渇いた声で言った。
でも急にもっと視界が滲んだ気がした。
隣にいた人が動く気配がして、距離が詰まる。今日はじめて向き合った。
「ごめんね、違うんだ。そんなことはないよ」
くしゃりと、あたしの傷んだ髪に手が乗せられる。
まるで子供をあやすみたいだ。
なんだか心地好くて、ゆっくりと目を閉じたら頬に液体が伝った感触がした。
「分からないから、分かりたくて必死で探すんだ。少しでも同じ世界を見ようとするんだ。だから、人間は優しい」
君も優しいだけだよ、目を閉じたまま、その言葉が浸透していくのを感じてた。
もし彼が言うとおりなら、優しくなんて無いほうがどれだけ楽だろう。
分かろうとしても分からないなら、全て無駄だと思うのに。
「あ、たし…」
「うん、大丈夫、」
「大丈夫なんかじゃ」
「良いんだ。無駄だとしても、尊くて一番綺麗なものだよ。弱くて愚かな僕らにしか持ち得ない、大切な…」
透き通った声が通り抜けた。
目の前の映像が焼き付いて、音が無くなったような気がした。
…ねぇ、やっぱりぜんぶ嘘だよ。
貴方はあたしの痛みで泣いてるじゃない。
優しい。全部が穏やかで透き通っていて、切なくて愛しい。
あたしを宥める言葉も、空に同化する涙の色も、どんどんあたしの心をふやかして脆くしていく。
沢山の事が引き金を引いて、大声で泣いた。
あたしはどうしたって、どんな風に感じ、どんなに言葉を尽くした所で、誰とも同じ、世界の一部だった。
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