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□わすれものひとつ
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「誰かいるな…」
森の中をバギーで走るシズが不意に呟いた。
陸が素早く答える。
「キノさんの匂いですね。嫌な匂いもしますが」
「──ケンカするなよ」
内容は注意なのに、どこか嬉しそうな声音。
やっぱり行くのか、と陸は思った。まぁ無理もない。新しい国に行く度に探す人がすぐ近くにいるのだから。
陸が言う方へ向かうとセンタースタンドで立つモトラドが見えてきた。
「…キノさん?」
背を向けて座っていたキノが驚いたように振り向く。
キノが気配に気づかなかった事に驚くシズはほんの少し目を見開いた。
「─…誰でしたっけ」
毎度の台詞に多少傷つきつつも、どこか安心したシズは苦笑した。
「シズだよ」
「ああ。…どうも」
「やっほ〜王子様」
「陸君は?」
「……」
毎度とはいえ、さすがのシズもこれには多大なダメージを受ける。なぜ陸のことは忘れないのだろう。
「お久しぶりです、キノさん。まだ捨てられてなかったのか、ポンコツ」
「バカ犬こそまだ段ボールに入れられてなかったわけ?」
「陸」
「エルメス」
「…はい」
「ちぇ」
静かになったのでシズは先ほど浮かんだ疑問を口にした。
「どうして私がここまで近づいても気づかなかったんだい?」
常に危険と隣り合わせの旅人は、人の気配に敏感である。
ましてキノならば気づかないはずがなかった。
「……」
シズの問いかけに、キノはなぜか目を逸らす。
すると、代わりにエルメスが声を発した。
「熟睡して寝返りうって、そこの木に裏拳かまして痛みに悶えてて気づかなかったんだよね〜キノ」
「うるさいよ、エルメス」
見ると確かに右手の甲が赤く腫れあがっている。
「大丈夫かい!?」
「はい、大したことありません。もう痛くないですし」
焦るシズに向かって、キノはぷらぷらと手を振ってみせた。
「ダメです! 貸してください」
シズは問題無いと言い張るキノを無視してハンカチを取り出すと水に浸した。
まだ抵抗を見せるキノの手を無理やり取ると、小さなその手に優しく巻いた。
「…ありがとうございます。きれいなハンカチですね」
キノが少しぎこちなく礼を言う。怪我(というほどでもないが)を誰かに手当てされるのが久しぶりなのだろう。
「いえ、当然のことをしただけです。…これ、お気に入りのハンカチなんだ」
キノとは対照的にシズは嬉しそうに笑んだ。
「洗ってお返ししますから」
「あ、いやそういう意味じゃないよ。気にしないでくれ」
「よかったねキノ。高く売れるんじゃない?」
思わず右手でエルメスのタンクをぶん殴ったキノは再び痛みに悶えた。
あはは大丈夫〜?と笑うエルメスを涙目で睨むキノを、シズは宥めた。
落ち着いたキノはシズへ体を向けた。
「今日はここで一緒に野宿しませんか? ここ以外は良い場所無いですし、その方が夜の番とか楽ですよ」
珍しくキノが優しく言う(おそらく後者が狙いだが)のでシズは内心舞い上がったが、平静を装った。
「そうなのかい? ではお言葉に甘えさせてもらおうかな」
夕食はシズが作り、楽しく過ごした。もっとも、楽しい理由はシズは相手がキノだからであり、キノは携帯食料ではないものが食べられたからであったが。
すでに陸とエルメスは眠りにつく中、キノは焚き火をぼうっと見ながらシズに尋ねた。
「このハンカチ売ったらいくらくらいしますかね」
「…………結構いい値がつくと思うよ」
シズの返答にキノはぷっと吹き出した。
「冗談です。ちゃんとお返ししますよ」
クスクスと笑うキノに、シズは少し考えてから答えた。
「いや、キノさんが売りたければ売って構わない」
「? そうですか?」
返すと言っているのに、とキノは不思議そうにする。
「ああ。それじゃ私が先に番をするからキノさんは先に寝てください」
「ありがとうございます」
夜が更けていく中、シズはすぐ隣で眠る少女に目を向けた。
「──俺はちょっと賭けをしようと思う。」
穏やかに微笑んだシズはキノの右手──色鮮やかなハンカチに触れた。
翌朝早く、キノがハンカチを返す間もなくシズと陸は旅立った。
バギーの中、陸はシズに戸惑いがちに尋ねた。
「…良いのですか? あのハンカチは…」
先を言えず黙り込む。
──あのハンカチは、シズの幼馴染みの形見だった。
キノなら売っても不思議ではない。なのにいいのか、と陸が見上げる。
「ああ」
短く答えられた陸は、今度は違う問いを発した。
「──わざとですか?」
「…そう、なるな。賭けなんだよ。キノさんが売らずに持っていてくれたら、少しは俺のことを…そして…」
前を向いて、言葉尻を濁した主に陸は何も言わなかった。
そして、とシズは思った。
賭けもあるのだけれど、少しでも長く、彼女に自分の痕跡を残しておきたかった。自分がいた証を。
「後は一方的な約束だ」
「約束、ですか?」
「ああ。また会おうっていう約束。要するに…口実だ」
シズは苦笑してとうに見えなくなった森を振り返った。
「キ〜ノ〜! それホントに売るの〜?」
キノを乗せて、シズとは反対方向に走るエルメスは風にかき消されぬよう声を張り上げる。
「そうだね、いい値がつくみたいだしー! 許可ももらってるしね。使えるものは使うのが旅の鉄則。次の国ではいつもより豪華な食事ができそうだ!」
キノも同じく大声を出す。
「びんぼ〜しょ〜!」
「はいはい!」
そんな言葉とは裏腹に、次の国で質屋ではなくクリーニングに出されたハンカチが大切そうにコートのポケットにしまわれたのは、また別の話である。
終