そいつがやって来たのは稽古も終わった夕暮れ時。 朝から曇ってはいたから、もしかしたらとは思っていたのだが、勝太が今まさに玄関から出ようとしたこの時に降りださなくても、と思う。 濡れた地面から、むせ返るような土の匂いが香った。 その中に蕗やら杉の子やら仏の座やら、春の草花の青い香りがかすかに混じる。 三寒四温。 暖かいと寒いを交互に繰り返して、それでも確実に暖かくなってきた今日この頃。 幸いこの日は暖かく、生温い気温に湿気がじっとりとにじんだ。 肌で感じる不快感に、しかし冬の凛とした切り裂くような冷たさはなく、それは正しく木々の芽吹きを約束する雨だった。 「いやぁ、降られましたな。若先生、傘は?」 「それが、今日は持ってきてないんですよ。」 空を見上げて呟いた彦五朗に勝太は困ったように笑った。 「じゃあ、一本持ってくか?」 土間の脇にある引き戸の中にある傘を取り出そうと腰をあげたら勝太に制された。 「いいよ、歳。あまり佐藤さんには迷惑かけたくないんだ。」 「迷惑だなんて、そんな・・・」 「いいんです。いつ返しに来られるかわかりませんし、借りっ放しになると気になるのは私ですから。」 断る勝太に彦五朗は心配そうな顔を隠さない。 大方、この雨の中試衛館まで歩いて返して風邪でも引いたら、と考えているんだろう。 「じゃあ、俺も行くかな。」 両手を上にあげて伸びをしながら、なるべくさり気なく聞こえるようにそう言った。 それに驚いたように彦五朗が声をあげる。 「行くって、歳三、お前今日は出かけるなんて言ってなかったじゃないか。」 「気が変わった。」 「そんなこと言ったって、今から行ったら帰りは夜中になるんじゃないのかい?」 「明日には帰ってくるさ。」 言いつつ引き戸を開けて傘を二本取り出し、一本を勝太に渡す。 「いや、俺は・・・」 「行こうぜ。」 言いかけた言葉をわざと遮る。 そのまま勝太の腕を取って門へと歩き出した。 未だ戸惑ったままの勝太は傘をひらく事もせず、後ろを振り返り振り返りしつつ、引きずられるようにして歩く。 「ちょ、ちょっと歳三!行き先くらいちゃんと言って行きなさい!」 後ろから追いかけてくる慌てた声に、にやりと笑って振り向いた。 「決まってんだろ。試衛館だよ。」 あっけに取られた義兄の顔を見て、今度は声を出して笑ってやった。 |