千月的徒然草

□竹刀剣術と試衛館
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天然理心流 試衛館

天然理心流は江戸の中期に始まった、幕末では新興流派の一つでした。しかし、天然理心流は実際で勝つ事を重視した古武道に近い流派。治安が悪化した幕末に身を守る為の剣術が求められたからです。実際、佐藤彦五郎が天然理心流に入門したのは祖母が斬殺されたのがきっかけでした。
試衛館に食客が集まったのも、天然理心流が実戦重視の剣術であったことが理由の一つなのではないでしょうか。

食客?内弟子?

永倉新八は一説には試衛館の内弟子だったそうです。また、山南には多摩での出稽古の記録があります。天然理心流を教えられなければ出稽古には行けないでしょう。彼らは勇から、又は周助から天然理心流を学んでいたのでしょう。
山南が勇に負けて師事したと伝聞があるように、試衛館の食客はどちらかというと内弟子に近いものだったのかもしれません。おそらく彼らは道場剣術で勝つだけでは満足出来なかったのでしょう。だからこそ、天然理心流に魅力を感じ、試衛館に居着いたのだと思います。

試衛館は貧乏道場?

実は試衛館が主に教えていたのは市ヶ谷の御家人達。確かに理心流は多摩で地盤を築いた流派ですが、江戸での知名度が特別低かったわけでも、貧乏だったわけでもないそうです。
試衛館が貧乏道場だったというのは司馬遼太郎の創作。実際はそれなりに流行っていたそうです。
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