誰にも言いませんでしたが、何年か前、私は信号待ちをしている時、自分自身と出会ったことがありました。 驚く私に対して、もうひとりの私は、穏やかに微笑みながら、「たいしたことじゃない。大丈夫」と答えました。 そして、ほんの短い立ち話の中で、こんなことを私に言いました。 あなたは愛する人と電車に乗っている。 やがて、愛する人の住む駅に着き、愛する人はホームに降りる。 あなたはついていきたいと思う。 すべてを捨てて、ついて行きたいと思う。 その時、あなたが強く思った時、世界は分裂する。 ホームに降りたあなたとホームに降りなかったあなたの世界に分裂する。 それをパラレルワールドという。 もちろん、ホームに降りなかったあなたは、ホームに降りたあなたの存在を知らない。 ホームに降りなかったあなたは、降りなかった自分を責める。 けれど、もうひとつの世界では、あなたはホームに降りている。 もうひとつの世界のあなたは、ホームに降り、愛する人に駆け寄る。 そこから始まる別な物語を、ホームに降りなかったあなたは知らない。 けれど、想像することはできる。 二度と会うことはないもうひとつの世界の自分が何を感じているのか、ホームを駆けながら何を思っているのか。 想像することはできる。 中略 私は想像する。 …信号待ちで出会った彼女は、もうひとつの世界から来た氷川サキだったのか。 今となっては分かりません。 私達は、少し考えて、指輪を交換して別れました。 分裂した私はもう一人の私にとって、存在しない。 存在しないけれど、私は想像する。 その痛みを。 その喜びを。 その哀しみを。 この世界に生きる私は、もうひとつの世界の私を想像する。 (鴻上 尚史 作 「ファントム・ペイン」より)
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